2009年6月12日金曜日

2009.2.23~2.27 ボランティア講座現場実習「被災地の復興と被災者の生活再建」分野

■概要

 2月23日から2月27日の5日間に亘り、ボランティア講座「被災地の復興と被災者の生活再建」分野の実習が行われました。定員15名に対して応募11名、実際の参加者は10名でした。この実習は、本学都市安全研究センター学生支援GPの企画「地域に根ざし人に学ぶ実践塾」との連携で実施されたものです。



 初日23日は一日移動に費やし、2004年の新潟県中越地震、および2007年の中越沖地震の被災地へと向かいました。

 二日目24日は、「復興支援ネットワーク『れんと』」と「中越復興市民会議」の協力のもと、被災地である新潟県柏崎市に出来たネットワーク内の障害者作業所等で、数チームに別れて実習を行いました。

 参加した学生は、利用者の方がいきいきと過ごしておられるそれぞれの施設の雰囲気に触れると同時に、中越沖地震の際に、障害を持った方や施設の方が苦労されたことについて話を聞くことができました。地震による直接的なケガはなかったものの、精神的なショックで地震後に症状が悪化して4人もの方が亡くなったという話。水不足が深刻化し、薬を飲むために水をもらいにいったところ、「老人と子ども用の水だ」と言われもらえなかったこと、普段トイレを使う人もオムツを使わざるをえなかったこと、食器も洗えなかったため3食とも普段は食べないレトルトのおかゆを食べざるをえなかったことなど、「水がない」ということにより、不都合な状況がさまざまな場面で引き起こされるという話をお聞きしました。

 また知的障害を持った方は生活のリズムがずれるとパニックになったり、こだわりの強い方は、たとえ崩れそうでも自分の家のいつも寝ている場所でしか寝られないということや、地震による環境の変化で、また一から新しい習慣を身につけねばならなくなったといった話を聞き、「社会的弱者が震災の時に置かれる状況がすごく勉強になった」と感想を述べた学生もいました。

 3日目25日は、午前中は前日の実習内容をふまえつつ、今後の実習に関するオリエンテーションを行いました。午後からは中越沖地震で被害を受け作られた新潟県柏崎市宮川地区仮設住宅にて、自治会の協力のもと、足湯ボランティアを行いました。

 足にお湯をつけてもらい、学生は手をもみ、リラックスしてもらうなかでコミュニケーションを取る足湯では、何気ない会話の中からふと重要なお話を聞くことができます。今回参加した学生も、足湯を通したあたたかいふれあいから、さまざまなお話を聞くことができました。中越沖地震の際に、揺れた瞬間の生々しい話や、神戸から食器類が送られてきたといった体験談。あるいは復興に関する運動に携わっている住民の方による、「地域を越えて」というモットーで活動しているというような復興への取り組みについてなど、貴重なお話をたくさん聞くことができました。




 4日目の26日は、午前中は「中越復興市民会議」の鈴木隆太氏に案内してもらいながら、山古志村内の様子を見て回って復興の様子を学ぶフィールドワークを行いました。午後からは、「竹沢よりみち倶楽部」と「中越復興市民会議」の協力のもと山古志村の住民の方に先生になってもらい、雪かき・雪下ろしの実習をしました。終了後には住民の方との交流会を行い、最終日27日の朝、神戸に向けて出発しました。





■参加者感想

 震災ボランティアといわれてイメージするのは、地震直後にその震災地域に行って倒壊した建物の処理を手伝ったり、被災者への炊き出しなどの物資支援をしたりするものだとすぐに思いつく。少なくともぼくはそうである。実際にそのような活動はあるのだが、今回ぼくが体験したボランティアというのは、そのような活動をするというよりむしろ、「それを通じていろいろな人達に出会わしてくれる」という方が表現としてしっくりくるのではないかと、終わった今さらながら、そう思う。

 でも、当初の想いは全く違っていた。今までボランティア経験をあまりしてこなかった自分として、ボランティア講座を申し込んだときの気持ちの持ちようとして、今回の参加が、自分の中での何らかの変化をもたらすのではないか?という期待を多いに寄せていた。しかし、いざ23日を迎えると、そのような期待とか全く感じず、目の前に差し迫った「ボランティア」という得たいの知れないものに、少し尻ごみしていて、正直に言うと、何もできない自分がいるのではないかとビビっていたのである。

 初日の実習先の「夢工房」さんでは、実際の実習よりもお話や休憩時間の方が長かったかもしれない。けれども、そのことが逆に、会話をする機会が多く与えられ、震災当時の障害者の苦労話とか、刈羽村の二重被害を受けた事実とか聞けた。特に、利用者の一人のなかには、震災時、避難所で生活をしていたのだが、薬を飲むのに、水が必要だったので、避難所の役員の人に水をもらいに行ったが、役員の人が、水の供給は、子供と老人にしかできないとして、利用者への水をあげなかったのだ。

 外見では障害者とは判断がつかないために、苦労を重ねる場合もありうるということに初めて気づかされた。なんだか複雑な気持ちだった。普通に生活したいけれど、「障害者」でいなければいけないという時があることに。でも、苦労せねばならい環境に置かれても、人はめけず生きているのだ。「夢工房」で出会った人たちの方が、よっぽど自分なんかよりメンタル面で強いのだと、感じたのが初日であった。




 二日目の宮川地区の人々と交流会では、震災当時についてお話させていただく機会が午前中にあった。宮川地区の人々のみなさんが口をそろえていっていたことは、「忘れかけていた震災当時の記憶が再び、思い起こされるな」と……それを聞いて、なんだが意外だなと感じた。あれほどショッキングな事柄がおきると、どんなに時間がたっても、どんなことが起きても、記憶が風化していくはずがないと考えていたからだ。けれでも、案外、風化していくのが当たり前なのかもしれない。

 それは別に宮川地区の人々に限定されることではない、山古志村の人々たちだって、震災の話を振らない限り、そういう話題にならなし、もし震災当時の話になると、なつかしそうに語ってくれた。一緒に雪かきや餅つきをしていても、ここで、本当に震災があったのかと自分の目を疑うほど、山古志村の人々は元気であった。そのことが、何よりも不思議で仕方なかった。そして確かに言えることは、都会育ちで、大きな震災の被害をあまり受けたことのない自分が、逆に元気をもらったという事実である。





 震災は心に大きな傷痕を残すかもしれない。生活環境が180度変わるかもしれない。けでども、震災があったからと言って、猫の同じように、いつまでも炬燵の中でぽかぽかと温まっていては、何もできやしない。炬燵の中からでてきて、どんなに寒くても、どんなに風が強くても、前を向いて大きく歩みだすことが大切なことである。ぼくは新潟にきて、いろいろな人たちに出会えたからこそ、そのような「戯言」を言えるだと思う。
(国際文化学部・男)

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