2012年2月3日金曜日

第2回ふくしまをきく会、開催されました

2012年2月3日(金)17:30~

神戸大学国際文化学部F102にて

第2回ふくしまをきく会

「新年を迎えて 福島からのメッセージ 3.11から見えてきたこと そしてこれから起こること」

■講師: 福島県南相馬市同慶寺・仲禅寺住職 田中徳雲さん







会場の様子です。






講演会の最後には、みなさんでこちらの「べこっこロール」をいただきました。

東日本大震災で神戸に避難してきた東北ママのグループ「べこっこMaMa」が神戸・旧慰留地の大人気ケーキショップとコラボしてできあがった、とってもスペシャルなロールケーキです。


Mama達がロールケーキを作っている間に、子どもの遊び相手をしてくれるボランティアを募集しています。

詳細はボランティア支援室まで。


■主催:こうべでふくしまを支える会(仮称)
■共催:神戸大学学生ボランティア支援室

2011年1月27日木曜日

震災ボランティアからのメッセージ 「てんと村に集った若者たち―阪神・淡路大震災、ちびくろ救援ぐるうぷの活動」開催報告

 1月18日(火)、国際文化学部M202教室にて、標記の企画を開催しました。都市安全研究センター学生ボランティア支援室と「生きづらさから考える会」の共催です。
 阪神・淡路大震災が発生した1995年は、各地から多くの人びとが被災地に駆け付け、「ボランティア元年」とも呼ばれました。今回の企画では、そんな「震災ボランティア」として若者時代を生きてきた方々を講師としてお招きし、今の若者たちにメッセージを伝えていただきました。

 講師は、神戸市兵庫区の「ちびくろ救援ぐるうぷ」で事務局長を務められた、よしのさん(当時16歳!)と、同じグループで活動されていた、空(kara)さんです。このグループは、阪神・淡路大震災が起きた際、神戸市兵庫区にある「ちびくろ保育園」に集まった人々による救援活動から始まりました。その後、保育園から近くの公園に拠点を移し、全国から集まった様々なボランティア、特に若者たちを受け入れて救援活動を展開しました。現在、神戸大学生などが全国の災害被災地で展開している足湯ボランティア活動も、このグループが起源です。
 最初に、当時の活動の様子を映像で紹介していただきました。テント村や仮設住宅の内外で、当時10代や学生だった若者たちが活き活きとしている様子がうかがえました。そして、講師のお二人に、スロースペース・ラミの小野洋さんがインタビューする形で、当時を振り返りました。お二人以外のメンバーにも、お話をいただきました。「ちびくろ救援ぐるうぷ」は、被災者/ボランティアという区別を超越した、ひとつのコミュニティであったことが明らかにされました。そして、そこでできた人間関係は今も続いているとのことです。

 参加者は、学生、卒業生、「ちびくろ救援ぐるうぷ」の関係者の方など総勢30名強。今の若者(学生)たちからは、「泥臭い話が聞けた」「『一生の友達を作ってください」という言葉に感動した」「『被災直後はボランティアと生活の境目はなかった』と聞いて、今とは違うなと思った」などの感想が寄せられました。

阪神・淡路大震災16周年記念講演会 神大生へのメッセージ 開催報告

 1月12日(水)、国際文化学部M202教室にて、標記の企画を開催しました。都市安全研究センター学生ボランティア支援室と神戸大学ニュースネット委員会の共催です。
 講師は、兵庫県佐用郡佐用町で小学校の教諭を務められてきた、上野政志さん。当時、発達科学部2年生で20歳だった長女・志乃さんを震災で亡くしました。また2009年8月の佐用町水害では、教え子さんたちが命を落としました。

 そんな上野さんの講演のテーマは、「生きてこそ~1.17を忘れない」。災害というカテゴリーに収まりきらない、生命とは何かというきわめて深遠な内容でした。志乃さんは2日後に成人式を控えていたそうです。授業で提出したレポートには「家族は絶対的なもの」と書いていたそうです。そんな娘さんの突然の死という不条理を、「逆縁」という言葉で表現されました。親は一生、悲しみから逃れられない、だからみんなに忘れないでいて欲しいと訴えられました。上野さんは現在、いくつもの社会活動に携わっておられるとのことで、お話の内容も多岐にわたりましたが、いずれの内容も、生命(人間に限らず)を大切にするという姿勢が滲み出ていました。生と死という、言葉だけでは表現しきれないものを、もどかしいながらも何とか次世代に伝えていきたいという、いかにも教育者らしい上野さんの姿を見ることができました。

 参加者は、学生、卒業生、報道関係者など合計31名。参加者から回収したアンケート用紙は、どれも感想欄に字がびっしりと書き込まれていました。「『物のように扱われる遺体』の体験談に考えさせられた」「生きていることの実感を意識しながら生きていこうと感じた」「“話を聞ける”人になりたい」「(話を聞くことで)理解はできなくても、受け止めることはできるのだと気付かされ、救われた気がした」などの感想が寄せられました。

震災15周年記念連続講座 第3回「苦闘からの教訓―兵庫県の防災と危機管理」開催報告


 10月31日(水)、国際文化学部B102教室にて、標記の講演会を開催しました。日本災害復興学会共催、震災15周年記念連続講座「阪神淡路大震災と私のターニングポイント―3つのキーワードでたどる」の第3回目です。
 今回の講師は、初代兵庫県防災監、兵庫県副知事を歴任された、財団法人兵庫県国際交流協会理事長、齊藤富雄先生です。大震災の教訓を活かした防災対策・危機管理に努めてこられた経験をもとに、災害時の行政の役割についてお話いただきました。
 今回の3つのキーワードは「失敗を活かす」「繋がりを活かす」「人を活かす」でした。齊藤先生は、大震災のときは、家族を田舎に帰し、ご自身は県庁に泊まり込みで災害復興に携わり、その後1996年に初代防災監に就任されて以降も、兵庫県内で起きたさまざまな災害や危機管理事案の対策を指揮してこられました。
 その経験を「実践的危機管理10の視点」という10本の標語に見事にまとめられています。いざというときのために、徒労をいとわずに最悪の事態をイメージし、マニュアルをつくっておくこと、そのマニュアルの欠点を洗い出すために、「失敗する訓練」を重ねること、日常的に使うシステムを非常時にも使うことなど、貴重な教訓を伝授していただきました。そして行政が復興を担う際には、「創造的復興」という発想が重要であることを訴えられました。最後に、今後必ず起こるであろう大地震は数十年後に来る可能性が高いから、次代を担う若者たちに期待したいという、熱いメッセージで締めくくられました。

 参加者は、学生、教員、卒業生、一般企業の方など総勢30名強。「とても聞きやすかった」「進路について考えさせられた」「失敗から成功を得るという考え方に共感した」などの感想が寄せられました。

2010年7月22日木曜日

震災15周年記念連続講座 第2回「災害復興~王道は憲法実践」開催

■7月6日(火)、都市安全研究センター・学生ボランティア支援室主催「阪神・淡路大震災と私のターニングポイント-3つのキーワードでたどる」の第2回「災害復興~王道は憲法実践」を開催し、23名の学生・地域住民が参加しました。

■今回は、神戸大学OBで兵庫県弁護士会災害復興支援委員会委員長を務めておられる弁護士の津久井進先生をお招きし、弁護士活動の原点となった司法修習生時代の震災ボランティアの経験や、その後の災害法制への関わりなどをお話し頂きました。今回の3つのテーマは「支援と法」「憲法の使い方」「災害復興基本法を」でした。


■津久井先生は、埼玉県で司法修習生をしていた時に阪神・淡路大震災を経験。神戸周辺の家族や知人にすぐに連絡をしますが、テレビで阪神高速が倒壊している状況を目の当たりにすることで一気に実感がわき、司法修習生仲間に声をかけて被災地神戸へ駆けつけました。当時、関西以外出身の仲間がテレビを見ながらも「よその出来事」として日常を過ごしている様子を見て、どんな出来事も他人事として捉えず「イメージ」することの大切さを痛感し、その後の当事者の視点に立った支援というスタンスへつながりました。



■被災地では、神戸大学を中心に避難所やテント村の支援を行っていた「神戸大学学生震災救援隊」や「神戸大学法律相談部」と共に活動し、国際文化学部体育館避難所で主に風呂焚きボランティアとして活動しました。他にも、避難所での無料法律相談なども実施し、「法律は、途方にくれた被災者の心を明るく照らす存在でなければならない」という思いを強くしました。また、法律相談の原点は「聴くこと」だと考え、被災者の気持ちを創造して話を聴くことを大事にしていました。後に、弁護士だけでは対処できない問題も多数出てきたことから、税理士、建築士、司法書士などと協力する「阪神・淡路まちづくり支援機構」という組織を作って今でも事務局を務めています。



■被災者にとって必要な法とは何か考えたとき、憲法こそ復興の基本法ではないかと考えています。憲法は、戦後の焼け野原からなんとか立ち上がって日本を復興させようと作り上げたものです。また、ボランティア活動というのは「市民の市民による市民のための自律的な活動」という意味で、国民主権、そして憲法全体を実現しているものと言えます。さらに、海外で活動する災害ボランティアこそまさに、憲法前文にある「国際社会において名誉ある地位を占める」ことに貢献しているとも言えます。



■憲法のスピリットを活かしながら、被災者の拠り所となる法律を作ろうと、現在「災害復興基本法案」を作成し、実現に向けて行動しています。復興の理念が、教育を通して子どもたちに継承されていくことを願っています。


■参加した学生からは「災害やボランティア活動について憲法との関係で説明してもらえてわかりやすかった」などの感想が寄せられました。



■次回は、10月13日(水)17:30~元兵庫県副知事の斉藤富雄先生をお招きして講演会を実施しますので、ぜひご参加下さい。

2010年5月20日木曜日

講演会「貧困と野宿を考える-野宿者襲撃と若者たち-」を開催


■5月11日、学生ボランティア支援室の新入生歓迎講演会「貧困と野宿を考える-野宿者襲撃と若者たち-」を実施しました。

■4~5月にかけて実施した「「夜回り」で野宿している人に出会ってみませんか?」という企画とともに、学内で野宿者問題・貧困問題への理解を深める取り組みの一環として行いました。講演会には、新入生、上級生、教職員、地域住民の方合わせて30名以上が参加しました。

■講師の生田さん(野宿者ネットワーク代表、ホームレス問題の授業づくり全国ネット共同代表)は、学生時代に初めて大阪・釜ヶ崎を訪れ、その後25年以上日雇い労働者や野宿者の支援活動に携わってこられました。初めて釜ヶ崎を訪れた時、野宿者はやはり普通の人と何か違うのだろうかと思っていたけれど、話をしてみると、高齢でアルミ缶集めなど重労働をしながら生活している人たちはとてもまじめで、「人様の世話にならず働いて生きていきたい」と語る人も多く、「日本では正直者が野宿しているのか」と衝撃を受けたそうです。

■生田さんは「全国で不安定就労から失業、貧困、野宿へ」という流れが広がっていると語ります。最近は、女性や若者の野宿も増えていて、「派遣の仕事がなくなって寮を出て行くところがない。生活に困って知り合い何人にも借金して、その返済に困っている」という30歳の男性からの相談などがあるそうです。

■野宿している人への夜回りを続けながら、直面する最大の問題の一つが「襲撃」だと言います。殴る蹴る、エアーガンで撃ちまくる、生卵をぶつけるなどの襲撃をこれまで何百回も聞いてこられ、一番ひどかった例では、いきなりナイフで眼球を突かれたということもあったそうです。やっているのはほとんどが10代の少年グループで、つっぱりもいれば優等生もいて、誰がいつ野宿者を襲うかわからない状況です。その背景には、大人が「ホームレスとは目を合わせてはいけない」「喋りかけられても無視しなさい」「あんな風になりたくなければ勉強しなさい」など、差別的な発言をしていることが影響しているのではないかとのことでした。ちなみに、「子どもが野宿者を襲うことはあるが、野宿者が子どもを襲った話を聞いたことはほとんどない」そうです。

■欧米では、1980年代では若者の失業や野宿が増え始め、今では日本とは比較にならないほど多くの人が野宿をしているそうです。「日本は欧米を20年遅れで追いかけている」と言われ、現在は親に支えられて生活している若年の不安定就労者が、今後野宿になる可能性は高いとのことです。

■生田さんは最後に「高校生が100人いれば全員違うように、ホームレスってこんな人たちというのはない、一人一人と話していくしかない」「世の中の野宿している人や貧困状態にある人を、これまでと違った目で見てもらえるとありがたい」と語って講演を終えました。

■参加した学生からは「自分自身の問題だと感じた」「ホームレスの人も私たちと変わらない普通の人だと感じた」「子どもへの教育が重要」などの感想が寄せられました。

2010年5月13日木曜日

2010.4.21 阪神・淡路大震災15周年記念連続講座 第1回「記者ときどき被災者~災害復興事始め」を開催




■2010年4月21日木曜日の夕方、神戸大学国際文化学部B102教室にて、阪神・淡路大震災15周年記念・連続講座「阪神・淡路大震災と私のターニングポイント-3つのキーワードでたどる」の第1回が行われました。(主催:学生ボランティア支援室)

■記念すべき第1回目は、「記者ときどき被災者~災害復興事始め」と題して、関西学院大学災害復興制度研究所主任研究員の山中茂樹先生をお招きして講演会を行いました。参加者は10名程でしたが、その分密にじっくりお話を聴くことができました。

■山中先生は、阪神・淡路大震災が起こった当時、朝日新聞社の記者をされていて、その後、災害をテーマに取材を続けて来られました。以下は、山中先生の講演内容の要約です。

■1969年に朝日新聞に入社した。当時は、「保守/革新」「反米/反ソ」など分かりやすい対立軸があり、新聞にとってはやりやすい時代だった。今のように価値観が多様化して書きにくいということはなかった。私は、60年代反安保、70年代反公害、80年代反差別、90年代人間復興を追いかけながら、この国の形を問い続けることを生涯のテーマにしてきた。

■1995年1月17日、当時私は神戸総局のデスクをしていた。その日は大阪の吹田の家にいた。大阪も揺れがひどく、ぐるぐる回るような感じで立ち上がれなかった。最初は、淡路島がやられているという情報が入った。電車が止まっていて、タクシーで向かおうとしたが途中から進まなくなる。ラジオを聴いていると、だんだんすさまじいことを言い始める。そこからとりあえず家に帰りTVをつけると、神戸は大変なことになっている。「これで行かなければ辞表だ」と思い、飛び出して車を拾った。大阪も信号は止まっている。本社に向かい、そこから車で神戸へ向かう。周りは家が倒れ、高速道路が倒れ、泣き叫んでいる人がいる、すさまじい状況。午前11時頃本社を出て、三宮に着いたのは午後4時。三宮は土埃が街中を覆って、しーんとしてゴーストタウンのよう。神戸支局の建物に入って、ライターをつけて階段を上った。今になって思えば、ガスでも充満していたら大変で、危機管理意識がなかったと痛感する。こういった話はいくらでもあり、震災体験者というのはいくらでもしゃべってしまう。

■実は、阪神・淡路大震災の21年前に、大きな直下型地震が起こることは予測されていた。大阪市立大学と京都大学が調査をし、「長田・兵庫区はほぼ全滅する」ということまで言われており、まさに同じ事が起こった。にもかかわらず、我々は何も知らず、何も勉強していなかった。それまで40年間、大阪本社管内で死者の出る自然災害が起きておらず、我々が入社してから一度もそういったことに直面していなかった。人間は経験則でしか動けないということが証明されたように思う。当時は、災害報道に関しても様々な批判があった。やらせ報道や、土足取材、盗電など様々な問題が起きた。一方で、死亡者以外の安否情報や生活情報を重複報道するなど、超法規的対応もとられていた。

■震災報道を通して、復興制度がこの国に欠如していることなど様々なことが見えてきた。ここで、「被災者責任」という言葉が出てきた。最初にこの言葉を使ったのは、神戸大学の松村直人さん。「公的補償を求める有志の会ニュース」第1号の巻頭言に、「私たち被災者にはその体験を、全国に、次世代に伝えていかないといけないのではないか」とあり、とてもいい論文で、これから「被災者責任」という言葉が全国に広がった。新聞は客観報道と言われ、「私」という第一人称を捨て去ることを求められる。私は、この時から「被災者責任を共に負う」と、第一人称で記事を書くということを決めた。その理由の一つは、震災報道の温度差。神戸紙面で載ったものが、ほとんど東京では載らない。東京では、結論の分かりやすい「防災」記事ばかりが載り、難しい問題を含む記事量の多い「復興」の記事は載らなかった。実際に災害が起きれば、復興の問題に直面するにも関わらず。こういった災害報道に問題を感じていた。

■国や自治体にとって「復興」は、人口や県民所得や空き地率を指標とした「都市復興」がイメージされている。被災者はどうしているのか、という「人間復興」の視点が欠けているように思う。きれいなマンションが建っても、中に入る住民はよそから来た人ということが起こっている。また、そもそも右肩下がりの被災地にとって、地域を再生するとはどういうことなのかが問われていない。元に戻すことを復興とするなら、右肩下がりの地域は復興に値する地域ではないと見られてしまう。復興をはかる指標を、人と人とのつながりなど違った形で考えていく必要がある。

■被災者の住宅再建の公的補償については、「私有財産自己責任論」によってなかなか実現しなかった。様々な運動の中で1998年に被災者生活再建支援法が制定されるが、購入できるものが厳しく制限されていた。「住宅再建を支援してくれ」と言っていたのが、似て非なるものだった。ことが動くのは、2000年の鳥取県西部地震の時。当時の片山知事が「今目の前で苦しんでいる人をどう救うか」「地域にとって道路も橋も住宅もインフラ」ということで、住宅復興補助金を出した。その後全国知事会などの様々な動きがあり、2007年に被災者生活再建支援法がやっと改正され、住宅再建の公的補償がやっと認められるようになった。

■私が主張しているのは「被災地の自決権に配慮せよ」「コミュニティの継続性に配慮せよ」「被災者の営生権に配慮せよ」「復興の個別性に配慮せよ」「一歩後退の復興に配慮せよ」「法的弱者の救済に配慮せよ」「多様な復興指標に配慮せよ」ということ。今後も、首都直下地震が起こると言われている。現行法で災害多発時代を乗り切れるのだろうか。直面する「被災者の今」をまるごと助けるために、法律、NPO、コミュニティなど、様々な立場からの支援を考え、行政もそれに見合った復興支援制度を作っていかなければならない。「事の支援」とはそういうことだと考えている。