2009年10月2日金曜日

2009年度地域に根ざし人に学ぶ実践塾「神戸の定住外国人の歴史と現状」報告

2009年7月31日
 学生ボランティア支援室にて事前学習会を開催しました。学生6名+スタッフ2名が参加しました。在日外国人を取り巻く課題や政策について学習した他、参加者がそれぞれに抱いている外国人へのイメージなどを話し合いました。

2009年8月25日
 NPO法人神戸定住外国人支援センター" moi "にて学習支援活動の実習を行いました。ベトナム、南米、フィリピン、中国等にルーツを持つ子どもたちに一対一で勉強や日本語を教える活動を2時間から4時間程度行いました。学生4名(+スタッフ1名)が参加しました。

2009年8月27日
 NPO法人神戸定住外国人支援センター、" moi "にて学習支援活動の実習を行いました。学生2名が参加しました。実習内容は25日と同様でした。

2009年8月31日
  神戸在日コリアン保護者の会代表キムシニョン氏によるレクチャーと長田区フィールドワークを実施しました。在日コリアンの歴史と現状についてキムシニョン 氏からお話いただいた後、長田区内のケミカルシューズ工場の見学やキムチ店でのキムチ作り体験、朝鮮学校や母語教室の見学などを行いました。学生7名+ス タッフ2名が参加しました。

2009年9月2日
 午前10時JR元町駅に集合し、「海外移住と文化の交流センター」にて、日伯協会の黒田氏よりレクチャー及び展示解説をしていただきました。その後、北 野地区の宗教施設や異人館等を見学するフィールドワークを行いました。午後3時より、神戸市長田区のたかとりコミュニティセンターに移動し、NGOベトナ ム代表のハ・ティ・タン・ガ氏のレクチャーを受けました。ベトナム-インドシナ難民が発生した背景やボートピープルとして来日した状況、その後の日本での 暮らし等について話を聞きました。その後、全体の振り返りを行いました。学生7名+スタッフ2名参加。


"moi"での、学習支援活動の様子



キムシニョン氏によるレクチャーの様子


長田フィールドワークの様子。キムチ店にて、キムチ作りを見学。




西神戸朝鮮初級学校の見学



神戸・北野山本通のフィールドワーク。(ジャイナ教寺院)



北野山本通フィールドワークにて、ハラールフードショップの見学

2009年度 地域に根ざし人に学ぶ実践塾「大阪における野宿と貧困の問題」報告

2009年7月24日
 事前学習会を学生ボランティア支援室で実施しました。学生8名が参加し、野宿と貧困という問題の構造的背景や基本的な事柄について学習し、「ホームレス」という言葉から浮かぶイメージなどについて話し合いました。

2009年8月8月20日
  午後7時30分、JR新今宮駅に学生13人が集合し、午後9時から、木曜夜まわりの会の小栁伸顕さんから40年にわたる釜ヶ崎との関わり、夜まわりの実践 などについてお話を伺い、つづいて10時30分から夜まわりに参加しました。釜ヶ崎から新今宮駅、阪堺線恵美須町駅、新世界、動物園前を経て釜ヶ崎に戻り ました。この日、夜まわりのコースでは約320人の野宿者を数えました。


2009年8月21日
 午前4時45分、あいり ん総合センターで朝の寄せ場を見学しました。シャッターが開くと同時に仕事を求める労働者が一斉にセンターに流れ込みました。センターでは西成労働福祉セ ンターのセンター長であるありむら潜さんからセンターの業務内容をお聞きしました。午後2時からは西成プラザにて日本学術振興会特別研究員の原口剛さんか ら釜ヶ崎がいまのような姿に「作られ」た歴史をお伺いし、続いて釜ヶ崎をまち歩きしました。午後5時からは映画「Public Blue」を視聴し、明日予定されているテント村について事前学習しました。


2009年8月22日
 朝10時から大阪に 残った唯一のテント村である西成公園で野宿者の方と、学生6人で交流会を行いました。野宿者が排除されていきつつある現場で野宿者からお話しをお伺いし、 生活保護や居住といった問題について、現場の声を聞くことができました。午後2時からは(株)ナイスくらし応援室・室長の佐々木敏明さんから、野宿者の居 場所づくりに関する実践をお伺いしました。


2009年8月23日
 午前10時から大阪人権博物館リバティおおさかを学生 6人と見学しました。午後12時30分から大阪城公園にて、大阪城公園よろず相談所の協力で、パペット制作のワークショップを行いました。ワークショップ には明治学院大学の学生も加わり、ありふれた廃材などで、自分たちの主張を楽しみながら色彩豊かにアピールする手法を学習しました。制作後は、公園内から 大阪府庁前を経由して天満橋まで行進を行いました。

2009年8月27日
 午後2時30分から学生ボランティア支援室にて学生4人と振り返り学習会を行いました。講師には日本学術振興会特別研究員の原口剛さんをお招きしました。



釜ヶ崎にある「旅路の里」にて、感想を話し合う参加者


あいりん総合センターにて


西成公園にて、テント村に暮らすみなさんの話を伺う



西成プラザにて原口さんのお話を伺う。



カマンメディアセンター





大阪城公園にて、「青空大学」のパペット製作の様子



完成したパペットを手に、天満橋までパレードを行った。

2009年度地域に根ざし人に学ぶ実践塾「能登半島地震被災地・3年目の課題と地域の魅力」報告

2009年8月3日

 神戸大学学生震災救援隊BOX(国際文化学部内)にて、事前学習会を実施しました。能登半島地震発生当時の状況、被害や復興の状況などについて報告がなされた他、参加者それぞれの地震の経験や被災地の問題について話し合いました。学生9名+スタッフ2名が参加しました。

2009年8月9日から8月12日

能 登半島の穴水町に滞在しながら、実習を行いました。10日には有機農法を実践する農地の見学、自然体験指導者養成講座、カヌー体験を行いました。夕方には 穴水町の来迎寺住職の講話をお聞きました。

11日には金沢大学が主催するスタディーツアー「奥能登の景勝地から地震にせまる」に参加し、夕方より輪島市山 岸仮設住宅の元区長藤本幸雄さんのお話を伺いました。

12日には穴水町の住民へ足湯を実施し、穴水町大町仮設住宅元生活援助員皆森照子さんのお話を伺いま した。午後からは輪島市内の復興公営住宅を訪問しました。学生14名+スタッフ3名が参加した他、金沢大学や長岡技術科学大学の学生とも交流を行いまし た。

2009年9月8日

 神戸大学学生震災救援隊BOX(国際文化学部内)にて、振り返りの会を行いました。写真やビデオを見て実習を振り返りながら、参加者がそれぞれに感想を述べました。学生7名+スタッフ2名が参加しました。



輪島市三井にある新井さんの田んぼにて


穴水町でのカヌー体験の様子


穴水町の来迎寺にて


金沢大学主催のスタディーツアー(輪島市竜ヶ崎)


穴水町の「江尻屋」にて足湯の実施

2009年9月24日木曜日

2009.9.18-9.21 能登半島の伝統行事「お熊甲祭り」に参加してきました



 能登半島の七尾湾に面した熊木郷と呼ばれる地域では、毎年9月20日に、久麻加夫都阿良加志比古神社(くまかぶとあらかしひこじんじゃ)の大祭が行われています。天狗の面をつけた猿田彦を先頭に、枠旗と呼ばれる20メートル以上の高さを誇る深紅の旗を担いで宮入をする行事は、国の重要無形民俗文化財に指定されています。

 しかし、近年では人口流出や高齢化によって枠旗や御輿の担ぎ手が減り、枠旗を出せない集落が出てきています。そこで今年は、七尾市西岸地区の壮年団が組織する「どぼんこ・さるたひこ地域協議会」の呼びかけに、神戸の被災地NGO恊働センターと神戸大学学生ボランティア支援室が応える形で、都会の学生が能登の伝統文化に参加する企画「お熊甲祭りに参加しよう」が実施されました。

 企画には、神戸大学及び神戸学院大学の学生、さらに被災地NGO恊働センターのメンバー総勢約30名が参加しました。




 祭り前日の9月19日には、小牧集落の小牧白山社という神社で、祭りに使う木枠を磨く作業や、装束の準備をしました。また祭りのために作られる料理「祭りごっつお」に使うイイダコ釣りや、ごっつお作りを習う料理教室に参加しました。

 20日の祭り当日には、神戸の学生たちも集落の人たちと同じ装束に身を包み、枠旗を担いで宮入を行いました。地域の伝統行事に参加した経験は、多くの学生にとって、地域文化や都市農村の交流を考える貴重な経験となりました。

2009年6月12日金曜日

2009.4.24 新入生歓迎講演会 「私たちの身近にいる見えにくい外国人――日本に定住する外国人の現状――」

■2009年4月24日金曜日の夕方、神戸大学国際文化学部B102教室にて、新入生歓迎講演会が行われました。(主催:神戸大学学生震災救援隊、共催:神戸大学総合ボランティアセンター、学生ボランティア支援室)

■NPO法人「神戸定住外国人支援センター」理事長の金宣吉(キムソンギル)氏による「私たちの身近にいる見えにくい外国人――日本に定住する外国人の現状――」と題した講演会には、新入生、上回生、教職員、地域住民の方を合わせて40名以上が参加しました。

■講師の金さんは、神戸生まれの母親と東京・板橋生まれの父親の間に生まれた在日3世です。以下は、金さんの講演内容の要約です。

■金さんが生まれ育った在日朝鮮人ばかりが暮らす長田の町では、冠婚葬祭は荒々しく騒がしいのが普通だったという。子ども時代は、散髪に連れて行かれた「中華の散髪屋さん」や、三宮でよくすれ違った「顔の小さいインド人」が、自分にとっての「外国人」のリアリティだった。



■当時、在日の人たちが置かれた状況は厳しいものだった。仲の良かったマチャキという友達を映画に誘った時のことだ。彼が母親に「映画に行くから20円くれ」と言った瞬間、烈火の如く怒られた。今思い返せば、結核だった彼の父親の薬代を出すために、母親が一日中ミシンを踏んでいたのだった。在日は外国人だから"国民"健康保険には入れない。子ども心に、医療費の違いも分かっていた。それでも、同じ在日の家が30軒ぐらいある中では、そんなに不公平な感じでもなかった。子どもの頃の感覚というのは、得てして相対的なものなのかもしれない。

■最近では百円ショップで韓国姓のハンコが売られるようになったりと、ちょっとした変化を感じつつあるものの、外国人へのステレオタイプなイメージはまだまだきつい状況が続いている。「金さんのお国の韓国は・・・」と言われたりするが、自分のふるさとは間違いなく神戸だし、紅茶コーヒーを好む神戸の文化が、自分には色濃く影響している。そんな金さんが初めて韓国に行った22歳の頃、当時は韓国に行くことは怖いことだと言われる時代だった。今では区別がつかないが、その頃は着るものも靴も日本と韓国では全然違っていたから、向こうに行けば、自分は日本人として扱われることもあった。

■今は金という名前でこの場所に立っているが、自分が生まれた時には違う通称名が付けられていた。通称名は、非常に短い期間、日本が半強制的に行ってきたものだが、戦後、通称名をやめる人はほとんどいなかった。これは昔の話ではなく、現在、日本に暮らすベトナム人の多くが本名ではなく通称名を使っている。なぜそういうことになるのか。ここに見える外国人と見えない外国人という問題がある。

■見える外国人とは白人の外国人のことだ。見た目が違う、言葉が違うということで、日本人が意識している外国人がいる。ところが、神戸に暮らす在日や華僑への関心は希薄だ。たとえば姫路にも国際交流協会というのがある。彼らの仕事は姫路の子どもたちが国際人になることだと言い、姫路の皮革産業を支えているベトナム人には関心が向かない。つまり日本人が見たい外国人しか見ていないことにすら気づいていないのだ。

■日本は現在、日系人を労働力として受け入れているが、それは「日系人は日本文化に適応しやすいから」という理屈が未だにまかり通っているから。在日1世のための介護サービスを提供するために、資料を韓国語に翻訳したいという市の職員は、在日1世が読み書きできない状況に置かれてきたことをまったく理解していない。多文化共生の会議に出れば、18人のうち17人が日本人の血統。そういう状況で、多文化共生を謳えるのか?共生とはとてもデリケートな問題。自分たちは参加しないと言えることを確保することが大事だと考えている。そういうことでなければ少数者の文化を保持できないのではないかと考えている。

■自分たちは今、定住外国人の子弟には高校程度の学力をつけさせることを目標にしている。せめて社会に参加する権利を獲得させたい。大学には外国人子弟の優先枠を作る必要もある。均質な社会ではなく、多様性のある社会を作り、違いを認めるために必要なことだと思う。


■質疑応答
Q:これまで生きてきていやだったことや傷ついたことは?
A:傷つけないでいようと思うこと自体が失礼なこと。知らずに育ってきたから当たり前だが、興味本位でなく知ろうとする姿勢があれば、あとは個人の問題。相手を傷つけないようにいようと思えば、何人同士であっても臆病になってしまうから、そういう必要はないと思う。

Q:サラリーマンをされていた頃、なぜNPOをやろうと思ったのですか?
A:若気の至りで。大学時代、あるサークルに入って、世代交代していく中で、つい自分が手を挙げてしまったようなこともあった。

Q:帰化しようと思ったことはあるか?
A:ない。帰化という前提がおかしい。アメリカ大統領のオバマさんが、日本で生まれていたら彼はケニア人だった。日本の国が、旧植民地出身者を外国人としたから自分は外国人ということになっている。そういう自分がなぜ日本政府にお願いして日本人にしてもらわねばならないのか。帰化という方法でしか日本人になれないということ自体がおかしい。

Q:国際化について思うところを聞かせてほしい
A:国際化という言葉の限界が出てきて、多文化共生という言葉が代わりに出てきたのかもしれない。

2009.4.5 社会貢献・ボランティア活動説明会「ボランティアへの誘い」

■新年度に入り、新入生のみなさんにボランティア活動や社会貢献活動に興味を持ってもらうきっかけとしてもらうことを目的に、2009年4月5日、神戸大学の百年記念館・六甲ホールにおいて、「ボランティアへの誘い」と題して、講演会と活動説明会を行いました。

■全体の参加者は31名、そのうち7名の新入生を迎え、前半は本学国際協力研究科のロニー・アレキサンダー先生に講演していただきました。


■講演では、「ボランティアって何だろう?」というアレキサンダー先生によるい問いかけから始まり、ボランティアは社会に必要かどうかという問いかけに答える形で、会場に伸ばしたロープを軸に見立てて、参加者それぞれが考える位置に立ってもらいました。

■参加した学生からは「ボランティアが必要ないぐらいの社会を目指すべきだ」という意見を述べる学生や、「やはり誰かが手助けしてくれる社会の方がいいのではないか」など、多様な意見が発表されました。

■その後、アレキサンダー先生自身がボランティア活動を始めた時のきっかけや、幅広く広がるボランティア活動を紹介し、最後には、「ぜひボランティア活動に参加してみよう」という熱いメッセージで締めくくられました。




■後半は、既に社会的な活動やボランティア活動に取り組んでいる団体の学生のみなさんに、活動紹介や新入生へのメッセージなどを発表してもらいました。

■神戸大学に留学してきた学生の支援活動に取り組むTruss、震災をきっかけに設立された学生震災救援隊や総合ボランティアセンター、それから阪神・淡路大震災関連の報道を続け、学内メディアとして活躍するニュースネット委員会のメンバーが、パワーポイント等を用いて、壇上から活動を紹介しました。


■講演会と活動紹介が終了した後は、会場の外で団体ごとにブースに分かれての説明会が行われました。新入生への説明だけでなく、団体同士の交流も進み、当初の予定よりも30分以上、時間を延長して大いに盛り上がりました。

2009.2.23~2.27 ボランティア講座現場実習「被災地の復興と被災者の生活再建」分野

■概要

 2月23日から2月27日の5日間に亘り、ボランティア講座「被災地の復興と被災者の生活再建」分野の実習が行われました。定員15名に対して応募11名、実際の参加者は10名でした。この実習は、本学都市安全研究センター学生支援GPの企画「地域に根ざし人に学ぶ実践塾」との連携で実施されたものです。



 初日23日は一日移動に費やし、2004年の新潟県中越地震、および2007年の中越沖地震の被災地へと向かいました。

 二日目24日は、「復興支援ネットワーク『れんと』」と「中越復興市民会議」の協力のもと、被災地である新潟県柏崎市に出来たネットワーク内の障害者作業所等で、数チームに別れて実習を行いました。

 参加した学生は、利用者の方がいきいきと過ごしておられるそれぞれの施設の雰囲気に触れると同時に、中越沖地震の際に、障害を持った方や施設の方が苦労されたことについて話を聞くことができました。地震による直接的なケガはなかったものの、精神的なショックで地震後に症状が悪化して4人もの方が亡くなったという話。水不足が深刻化し、薬を飲むために水をもらいにいったところ、「老人と子ども用の水だ」と言われもらえなかったこと、普段トイレを使う人もオムツを使わざるをえなかったこと、食器も洗えなかったため3食とも普段は食べないレトルトのおかゆを食べざるをえなかったことなど、「水がない」ということにより、不都合な状況がさまざまな場面で引き起こされるという話をお聞きしました。

 また知的障害を持った方は生活のリズムがずれるとパニックになったり、こだわりの強い方は、たとえ崩れそうでも自分の家のいつも寝ている場所でしか寝られないということや、地震による環境の変化で、また一から新しい習慣を身につけねばならなくなったといった話を聞き、「社会的弱者が震災の時に置かれる状況がすごく勉強になった」と感想を述べた学生もいました。

 3日目25日は、午前中は前日の実習内容をふまえつつ、今後の実習に関するオリエンテーションを行いました。午後からは中越沖地震で被害を受け作られた新潟県柏崎市宮川地区仮設住宅にて、自治会の協力のもと、足湯ボランティアを行いました。

 足にお湯をつけてもらい、学生は手をもみ、リラックスしてもらうなかでコミュニケーションを取る足湯では、何気ない会話の中からふと重要なお話を聞くことができます。今回参加した学生も、足湯を通したあたたかいふれあいから、さまざまなお話を聞くことができました。中越沖地震の際に、揺れた瞬間の生々しい話や、神戸から食器類が送られてきたといった体験談。あるいは復興に関する運動に携わっている住民の方による、「地域を越えて」というモットーで活動しているというような復興への取り組みについてなど、貴重なお話をたくさん聞くことができました。




 4日目の26日は、午前中は「中越復興市民会議」の鈴木隆太氏に案内してもらいながら、山古志村内の様子を見て回って復興の様子を学ぶフィールドワークを行いました。午後からは、「竹沢よりみち倶楽部」と「中越復興市民会議」の協力のもと山古志村の住民の方に先生になってもらい、雪かき・雪下ろしの実習をしました。終了後には住民の方との交流会を行い、最終日27日の朝、神戸に向けて出発しました。





■参加者感想

 震災ボランティアといわれてイメージするのは、地震直後にその震災地域に行って倒壊した建物の処理を手伝ったり、被災者への炊き出しなどの物資支援をしたりするものだとすぐに思いつく。少なくともぼくはそうである。実際にそのような活動はあるのだが、今回ぼくが体験したボランティアというのは、そのような活動をするというよりむしろ、「それを通じていろいろな人達に出会わしてくれる」という方が表現としてしっくりくるのではないかと、終わった今さらながら、そう思う。

 でも、当初の想いは全く違っていた。今までボランティア経験をあまりしてこなかった自分として、ボランティア講座を申し込んだときの気持ちの持ちようとして、今回の参加が、自分の中での何らかの変化をもたらすのではないか?という期待を多いに寄せていた。しかし、いざ23日を迎えると、そのような期待とか全く感じず、目の前に差し迫った「ボランティア」という得たいの知れないものに、少し尻ごみしていて、正直に言うと、何もできない自分がいるのではないかとビビっていたのである。

 初日の実習先の「夢工房」さんでは、実際の実習よりもお話や休憩時間の方が長かったかもしれない。けれども、そのことが逆に、会話をする機会が多く与えられ、震災当時の障害者の苦労話とか、刈羽村の二重被害を受けた事実とか聞けた。特に、利用者の一人のなかには、震災時、避難所で生活をしていたのだが、薬を飲むのに、水が必要だったので、避難所の役員の人に水をもらいに行ったが、役員の人が、水の供給は、子供と老人にしかできないとして、利用者への水をあげなかったのだ。

 外見では障害者とは判断がつかないために、苦労を重ねる場合もありうるということに初めて気づかされた。なんだか複雑な気持ちだった。普通に生活したいけれど、「障害者」でいなければいけないという時があることに。でも、苦労せねばならい環境に置かれても、人はめけず生きているのだ。「夢工房」で出会った人たちの方が、よっぽど自分なんかよりメンタル面で強いのだと、感じたのが初日であった。




 二日目の宮川地区の人々と交流会では、震災当時についてお話させていただく機会が午前中にあった。宮川地区の人々のみなさんが口をそろえていっていたことは、「忘れかけていた震災当時の記憶が再び、思い起こされるな」と……それを聞いて、なんだが意外だなと感じた。あれほどショッキングな事柄がおきると、どんなに時間がたっても、どんなことが起きても、記憶が風化していくはずがないと考えていたからだ。けれでも、案外、風化していくのが当たり前なのかもしれない。

 それは別に宮川地区の人々に限定されることではない、山古志村の人々たちだって、震災の話を振らない限り、そういう話題にならなし、もし震災当時の話になると、なつかしそうに語ってくれた。一緒に雪かきや餅つきをしていても、ここで、本当に震災があったのかと自分の目を疑うほど、山古志村の人々は元気であった。そのことが、何よりも不思議で仕方なかった。そして確かに言えることは、都会育ちで、大きな震災の被害をあまり受けたことのない自分が、逆に元気をもらったという事実である。





 震災は心に大きな傷痕を残すかもしれない。生活環境が180度変わるかもしれない。けでども、震災があったからと言って、猫の同じように、いつまでも炬燵の中でぽかぽかと温まっていては、何もできやしない。炬燵の中からでてきて、どんなに寒くても、どんなに風が強くても、前を向いて大きく歩みだすことが大切なことである。ぼくは新潟にきて、いろいろな人たちに出会えたからこそ、そのような「戯言」を言えるだと思う。
(国際文化学部・男)

2009.1.13-17 パネル展示「1.17 記憶の回廊 ~阪神・淡路大震災と神大生の14年~」


■震災のことを知らない学生や教職員のみなさんに、震災のこと、そして震災をきっかけにはじまった学生たちの実践を知ってもらうことが、このパネル展示の目的でした。

■1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災は、神戸大学にも大きな被害と悲しい出来事をもたらしました。しかし、震災は神大生が社会的活動に取り組むきっかけにもなりました。

■あの日から14年が経った現在、災害被災地の支援や地元神戸でのボランティア活動、留学生の支援など、神大生の社会貢献活動は幅広く展開されています。活動に取り組む学生たちは、多くの経験を通じて人間的な成長を遂げてきました。

■そうした学生たちの実践は、私たちがこれから、どのように災害リスクと向き合っていくべきか、どのように地域貢献に取り組んでいくべきかということを考える上で、大切なヒントを与えてくれます。







■参加者の感想 (アンケートより抜粋)

 忘れ去れ行く大震災、学生諸君がこの事を心にとめ、継承されることについて感動しています。大切な資料です。大事に保管し、後世の人に伝えて行ってください。大変にご苦労様です、さすが神大生です!!ありがとうございました。
(灘区在住 66歳 会社役員)

 私は震災当時のことをあまり覚えておらず、また勉強不足のため、震災の様子やそれを支える活動について、分かりやすく目にすることが出来て、とても良かったです。
 私は神戸出身ではないのですが、大学でこっちに住み、被災者の方と触れる機会やボランティアに参加する機会がせっかくあるのだから、ぜひ参加しようと思いました。14年経ちましたが、当時の人々の助けあいの気持ちを今も忘れないでいたいです。
(国際文化学部1回生)

 自分のこととショック一杯で、周りが見えない日々が続いていました。今日のようにやはり、パネルなどで紹介し、語りつぎ、又、何かに役立つ事は一杯あると思います。なくなった方も、成人され、就職し、親の立場から見ると、つらい日が来ますが、子供さんの分迄、元気で頑張ってほしいと思います。
 ボランティアもなかなか、出来る事ではありませんが、人のため、世の中のため、私たちができること一つでも役に立ちたいものです。
(東灘区在住 57歳女性)






2008.12.10 連続講演会「生き難い社会を乗り越え て」 第3回 (「セクシャルマイノリティー」 )


■ロニー・アレキサンダー先生は、2000年に自らが同性愛者であることをカミングアウトしていらっしゃいます。しかしそのことを公にできるまでにはたくさんの苦悩がありました。

■レズとからかわれ、言葉の意味もわからないまま自分が悪い子だと思い込んで過ごしたこども時代。性的指向に気づき、悩み、「レズビアン」と口に出すに至るまでの数十年。親にも友人にも現実を受け入れてもらえない日々…。仕事での来日を機に一度は異性愛者になろうと決意しました。しかし、自分は異性愛者と思い込むことは可能でも、実際にそうなることは不可能です。長い間かかったものの、そのことに気づいた先生は、本当のことを自分の中にしまいこむ生活に終止符を打たれました。

■今回の講演会では、本当の自分を隠しているときやカミングアウトをしたときなどの心境の変化、カミングアウトをしてからの環境の変化。そういったことを当事者のアレキサンダー先生からお話していただき、セクシャル・マイノリティーの抱える生きづらさ、多様性を認める社会の大切さ、その他、たくさんのことを学び取れました。






■参加者の感想

 平和にとって重要なものは?という問いの答えに、私は「多様性」を選びました。しかし、正しくは「多様性の享受」だと思いました。男と女があってもいい。インターセックスでもFtMでもMtFでもいい、というのが大事かなと思います。そして「多様性の発見」。ひ一つの面、一つの箱だけ見て否定するのではなく、いろんな箱を見るのも大事です。
(文学部1回生 山本真由美)

 「10人にひとりはセクシャルマイノリティーがいる」ということを聞いて、ただ単に気づいていないだけの人が多いんじゃないかと思った。事実絶対そうで、「周りにそういう人がいなかったから・・・。」って言うけど、当事者が言うまで認識していないだけだ。そして、なかなか言えない社会が悲しいなと思う。カミングアウトと言う形をとらざるをえない社会、受け入れる、拒否という形が表れてしまうのは価値観の違いだけれど、認めあえることが必要だと思う。

 最初はセクシャルマイノリティと平和(暴力)の話がどういうつながりがあるんだろうって疑問だったんですけど、セクシャルマイノリティに対する直接的暴力、構造的暴力、文化的暴力が存在すると知りました。平和って「目に見える暴力がない状態」ではないと感じました。目に見えない暴力が確実に存在しているのに気づき、そういうものに気づいていけるようになりたいと思った。

2008.12.07 被災地長田のまちを歩く~震災14年、まちづくりの軌跡

■阪神・淡路大震災から以後、長田のまちに関わってこられた和田幹司さん(関西学院大学非常勤講師、神戸大学OB)を講師にお迎えして、長田区を歩きました。

■和田さんは震災の当日と翌日に、燃え尽きたまちのようすを、戸惑いながらもフィルムに収めたのをきっかけに、以後同じ場所の定点撮影を続けてこられました。以来、その写真を用いて、震災体験から得た教訓やその後の様子を伝えておられます。

■震災から14年が経ち、まちはどのようにして復興を遂げてきたのか。また「まちづくり」は長田に、人に、どのような変化をもたらしたのか。御蔵・菅原地区→真野地区→大正筋→鷹取 というルートを約3時間半かけて歩き、それを感じることができました。

■参加者の感想

 普段長田にはあまり行ったことがなくて (2、3回くらい) 、そのときはきれいな街だなぁと思っていたのですが、どうしてそんなにきれいな家が並んでいるのか、所々にちゃんと1月17日に起こったことが残されていることがよく分かりました。半分だけ焼けて残っている電柱とか、光をつかってなくなった人のいたところを示したモニュメントとかが印象に残ります。当日の写真と今の様子を両方見ながら歩けたのは良かったなと思います。
古島七海 (農学部3回生)

 震災の面影が全く感じられないくらい再復興していてびっくりした。足湯隊とかにも参加したことなく、長田区を歩いたこともなかったので、震災からの変化をどういった視点で見て歩けばいいのかつかめず困った。ところどころに、展示や写真があるからこそ、震災を実感できるけど、もしなかったら震災後に移り住んだ人や子どもは実感できず、今の利便さが当たり前になってしまうんだと思って、ちょっと怖いなぁと思った。だからこそ、和田さんのような伝える人が大事なんだなぁと思いました。また自分の震災に対する知識不足をすごく感じました。
山村麻里子(医学部保健学科1回生)

2008.11.19 連続講演会「生き難い社会を乗り越え て」 第2回 (「在日外国人」 )

■ブ・ハ・ビェト・ニャト・ホアイ・ナムさんは弱冠20歳。ベトナム難民2世のラップ歌手です。彼は少年時代、ベトナム人であることを恥ずかしく思い、日本名に改名しました。そんなある日、自分の親がどのようにして祖国を出たのかを聞きました。それからは友人の影響ではじめたラップを使って世の中自分がベトナム難民2世であること、ベトナム人でありながら日本人でもある自分だからこそ感じることを発信し、自分の少年時代と同じような境遇の人にも聞いて欲しいと音楽活動を行っています。

■日本に住んでいるのは「日本人」だけではありません。大多数の日本人が普段は考えてみることのない「エスニック・マイノリティ」と呼ばれる人たちが日本の中で感じる生きづらさを乗り越えて、ナムさんが今、どんな気持ちで歌を歌っているのか。今回はライブを交えながらそんなお話をしていただきました。

■参加者の感想

 11月19日、学生震災救援隊主催の2008年度連続講演会「生き難い社会を乗り越えて」の第2回目が行なわれました。

 今回の講師はブ・ハ・ビェト・ニャト・ホワイ・ナムさん。在日べトナム難民2世の20歳の青年で、「オレはオレのことをオレの歌で証明」と自分のアイデンティティを力強く歌い上げているラップ歌手です。
 まずベトナム戦争の歴史とナムさんのご両親が日本へ来た経緯について話してくださり、その後「オレの歌」を披露してくださいました。

 それから、小学生の時に友達に本名やベトナム人であることをからかわれ、中学入学と同時に日本名を名乗るようになったことや、別の講演会で受けた質問「もし生まれ変わるなら日本かベトナムかどちらに生まれたいか」という質問に対し、「どっちかなんて決められない、命があるだけでありがたい」と答えたということや、子どもたちになにか働きかけるのではなく、自分たちでいろんな葛藤の経験などを積んで、自分のアイデンティティを確立してほしいということや、ベトナム人であることを周囲の友達に告白した時の反応がそれほど拒否的ではなかったこと、在日ベトナム人のお客さんがいるライブで、ベトナムの国旗の描かれたTシャツを着ていったら反応があまりなく不思議に思っていたが、その後のお母さんからの話で、在日ベトナム人が祖国の政府が作った国旗に対して抱いている複雑な想いを知ったこと、そしてその経験から日本の国旗とベトナムの国旗を合わせた旗を自分のトレードマークにしようと思いついたこと、アルバイトしたお金で母国ベトナムへ留学していたときのことなど、さまざまなエピソードを、とてもフランクな感じでお話ししてくださいました。

 暗い話や苦労した話はほとんどなく、すべてを笑い飛ばしてしまうようなナムさんのポジティブさがひしひしと感じられる楽しい講演会でした。普通の日本人でもそのような境地に達するのはなかなか難しいでしょう。それはやはり、ナムさんが思春期の頃に自分のアイデンティティについて思い悩み、その末に「オレの歌」をたくさんの人の前で歌っていくことに決め、そのうえで今があるからなのだと、強く思いました。
村川奈津美 さん (神戸大学人間発達環境学研究科 修士課程)

2008.11.13 嵐は止まず サイクロン『ナルギス』後のビルマ(ミャンマー)情勢

■2008年5月2日から5月3日にかけて、ビルマ(ミャンマー) 南部のデルタ地帯を、超大型サイクロン「ナルギス」が襲いました。被災地への支援活動が日本各地で行なわれ、神戸大学でも学生団体のTrussや総合ボランティアセンター、学生震災救援隊が街頭や学内で募金活動に取り組みました。しかしながら、軍事政権が被災地支援にどのような影響を及ぼしているのか、被災者はどのような暮らしをしているのか、そして日本から送られた募金はどのように活用されているのか……。その後のミャンマーの姿を、私たちはほとんど知りません。

■そこで本企画では被災地支援の募金活動を行なった学生団体の報告を聞くとともに、ビルマ関係の情報をオンラインで発信するNGO「ビルマ情報ネットワーク」の箱田徹さんを講師にお迎えし、ビルマの軍政と人権状況、NGO・市民団体の支援などについてお話しいただき、その状況を私たちはどうとらえ、どう向き合うべきなのかについて、学生同士で話し合いました。

■参加者の感想

 私たちトラスも募金活動を行ったビルマのサイクロン被害。私も街頭に立ってビルマ人留学生と支援のお願いをした。しかし果たして自分はビルマのことをどれだけ知っているのだろう、自分たちが微力ながらも支援することができた国のことを知らないのは無責任ではないか。こういった考えから今回の講演会に参加することを決めた。

 講師の箱田さんのお話はわかりやすく、映像も交えた講演はビルマ情勢を知るうえでの基本的な情報が網羅されており大変参考になった。ビルマには、ビルマ、シャン、カレンなど複数の民族が居住し、東南アジアのユーゴスラヴィアと呼ばれることもあるということ。日本軍政下には抗日一斉武装蜂起が起こったこと。アウンサン・スーチーさんは「ビルマ建国の父」と呼ばれるアウンサンの娘だということ…。やはり知らないことだらけだということをまずは痛感した。なかでも特に印象に残ったのは軍事政権と内戦の問題である。軍事政権と内戦(国軍 vs. 民族武装勢力、共産党勢力)はそれぞれ50年、60年近く続いている。軍事政権の弊害は大きいようで、官僚はいるが機能していなかったり、ゲリラ対策としての4つの分断作戦(食糧や物資、情報、兵士、資金の供給路を断絶)をいまだに行っていたりするという。また、内戦の継続は国内外を問わず難民を発生させる。難民キャンプにはタイ国境、バングラデシュ国境合わせて16万人。国内避難民は正確な実態把握は困難だが、ビルマ東部だけで50万人。さらに、日本へも難民申請をする人は2007年だけで500人(うち難民認定35人、在留特別許可69人)だそうだ。

 どうすればこの状況を打開できるのか?少なくともその糸口を見出すことができるのか?やはり箱田さんのおっしゃるように民主化勢力、民族勢力、軍の三者対話が必要なのだろう。しかし「私たちにできること」を考えることも重要である。一番簡単なのは、これも箱田さんがおっしゃっていたことだが、こういった機会を通じて「ビルマについて話す」ということである。

 今回の講演会に参加して、ただ支援するだけではなくその後も関心を持ち続けるという作業を行えたという意味で自分たちの活動に継続性を持たせることができたのではないかと思う。このような機会を与えてくださった講師の箱田さんには感謝したい。
柴尾拓 さん (神戸大学国際文化学部 3回生)

2008.10.27 連続講演会「生き難い社会を乗り越えて」 第1回 (「ニート、ひきこもり」 )

■「ひきこもり」「ニート」と言うと、自分たちとは関係のない「特殊な人」「異質な人」と思っていませんか?

■イギリスで「ニート」という言葉が生まれたときには「今の学校システムに問題があるのでは」「なぜ企業は若者を正規採用しないのか」「若者が社会保障からこぼれ落ちてしまうのはなぜか」と社会を問い直すキーワードでした。ところが日本では、せいぜいに「怠け者」のこととしか受け止められず、「不登校」「ひきこもり」に社会復帰のための「指導」「治療」が押し付けられます。そんなことよりも、社会そのものへの問い直しが必要ではないでしょうか?

■講師の山下耕平さん(NPO法人フォロ理事・事務局長)は、不登校問題への取り組みから始まり、現在は広く若者の「生きづらさ」を取り上げ活動している方です。若者の「居場所」から社会を問い直そうとしています。

■不登校・ひきこもり・ニートになされてきた個人への「指導」や「治療」という“支援”は私たちから何を隠してきたのでしょうか。「特殊な事」として考えがちなこれらの問題を一度、自分の側に引き寄せて考えてみませんか? そこにこそ、今多くの人が感じている「生き難い社会」を乗り越える手がかりがあります。

■参加者の感想

 就職活動にイヤな気分を覚えた理由がなんとなく分かった。要するに、自分を経済的な尺度だけで測られるのが、イヤだったのだと思う。「自然体」という言葉が、しっくりくるように思った。 
的場恒尚さん(農学部4回生)

 授業でかなり途中からの参加になってしまいましたが、「目的をすてればよい。」という内容のことを何度も言っておられて、確かに、目的をすててしまえば楽になれるということには気付かされました。多分本当は人は「こうあらねばならない」なんて人間像はないんだと思います。いろんな人がいるから世の中はおもしろいのだと思います。ただ私達は今まで社会の中できづかれてきた考え方にしばられてしばられて、それに抵抗しようとする人がでてきたから今日のような問題があるんだと思います。当たり前のことを当たり前だと思わないことは大切なことだと思います。
 さなぎが蝶になるのに一度閉じこもってどろどろになるが、外からむりにあけると死んでしまうという話が印象的でした。
吉田悠未さん (農学部1回生)