2010年5月20日木曜日

講演会「貧困と野宿を考える-野宿者襲撃と若者たち-」を開催


■5月11日、学生ボランティア支援室の新入生歓迎講演会「貧困と野宿を考える-野宿者襲撃と若者たち-」を実施しました。

■4~5月にかけて実施した「「夜回り」で野宿している人に出会ってみませんか?」という企画とともに、学内で野宿者問題・貧困問題への理解を深める取り組みの一環として行いました。講演会には、新入生、上級生、教職員、地域住民の方合わせて30名以上が参加しました。

■講師の生田さん(野宿者ネットワーク代表、ホームレス問題の授業づくり全国ネット共同代表)は、学生時代に初めて大阪・釜ヶ崎を訪れ、その後25年以上日雇い労働者や野宿者の支援活動に携わってこられました。初めて釜ヶ崎を訪れた時、野宿者はやはり普通の人と何か違うのだろうかと思っていたけれど、話をしてみると、高齢でアルミ缶集めなど重労働をしながら生活している人たちはとてもまじめで、「人様の世話にならず働いて生きていきたい」と語る人も多く、「日本では正直者が野宿しているのか」と衝撃を受けたそうです。

■生田さんは「全国で不安定就労から失業、貧困、野宿へ」という流れが広がっていると語ります。最近は、女性や若者の野宿も増えていて、「派遣の仕事がなくなって寮を出て行くところがない。生活に困って知り合い何人にも借金して、その返済に困っている」という30歳の男性からの相談などがあるそうです。

■野宿している人への夜回りを続けながら、直面する最大の問題の一つが「襲撃」だと言います。殴る蹴る、エアーガンで撃ちまくる、生卵をぶつけるなどの襲撃をこれまで何百回も聞いてこられ、一番ひどかった例では、いきなりナイフで眼球を突かれたということもあったそうです。やっているのはほとんどが10代の少年グループで、つっぱりもいれば優等生もいて、誰がいつ野宿者を襲うかわからない状況です。その背景には、大人が「ホームレスとは目を合わせてはいけない」「喋りかけられても無視しなさい」「あんな風になりたくなければ勉強しなさい」など、差別的な発言をしていることが影響しているのではないかとのことでした。ちなみに、「子どもが野宿者を襲うことはあるが、野宿者が子どもを襲った話を聞いたことはほとんどない」そうです。

■欧米では、1980年代では若者の失業や野宿が増え始め、今では日本とは比較にならないほど多くの人が野宿をしているそうです。「日本は欧米を20年遅れで追いかけている」と言われ、現在は親に支えられて生活している若年の不安定就労者が、今後野宿になる可能性は高いとのことです。

■生田さんは最後に「高校生が100人いれば全員違うように、ホームレスってこんな人たちというのはない、一人一人と話していくしかない」「世の中の野宿している人や貧困状態にある人を、これまでと違った目で見てもらえるとありがたい」と語って講演を終えました。

■参加した学生からは「自分自身の問題だと感じた」「ホームレスの人も私たちと変わらない普通の人だと感じた」「子どもへの教育が重要」などの感想が寄せられました。

2010年5月13日木曜日

2010.4.21 阪神・淡路大震災15周年記念連続講座 第1回「記者ときどき被災者~災害復興事始め」を開催




■2010年4月21日木曜日の夕方、神戸大学国際文化学部B102教室にて、阪神・淡路大震災15周年記念・連続講座「阪神・淡路大震災と私のターニングポイント-3つのキーワードでたどる」の第1回が行われました。(主催:学生ボランティア支援室)

■記念すべき第1回目は、「記者ときどき被災者~災害復興事始め」と題して、関西学院大学災害復興制度研究所主任研究員の山中茂樹先生をお招きして講演会を行いました。参加者は10名程でしたが、その分密にじっくりお話を聴くことができました。

■山中先生は、阪神・淡路大震災が起こった当時、朝日新聞社の記者をされていて、その後、災害をテーマに取材を続けて来られました。以下は、山中先生の講演内容の要約です。

■1969年に朝日新聞に入社した。当時は、「保守/革新」「反米/反ソ」など分かりやすい対立軸があり、新聞にとってはやりやすい時代だった。今のように価値観が多様化して書きにくいということはなかった。私は、60年代反安保、70年代反公害、80年代反差別、90年代人間復興を追いかけながら、この国の形を問い続けることを生涯のテーマにしてきた。

■1995年1月17日、当時私は神戸総局のデスクをしていた。その日は大阪の吹田の家にいた。大阪も揺れがひどく、ぐるぐる回るような感じで立ち上がれなかった。最初は、淡路島がやられているという情報が入った。電車が止まっていて、タクシーで向かおうとしたが途中から進まなくなる。ラジオを聴いていると、だんだんすさまじいことを言い始める。そこからとりあえず家に帰りTVをつけると、神戸は大変なことになっている。「これで行かなければ辞表だ」と思い、飛び出して車を拾った。大阪も信号は止まっている。本社に向かい、そこから車で神戸へ向かう。周りは家が倒れ、高速道路が倒れ、泣き叫んでいる人がいる、すさまじい状況。午前11時頃本社を出て、三宮に着いたのは午後4時。三宮は土埃が街中を覆って、しーんとしてゴーストタウンのよう。神戸支局の建物に入って、ライターをつけて階段を上った。今になって思えば、ガスでも充満していたら大変で、危機管理意識がなかったと痛感する。こういった話はいくらでもあり、震災体験者というのはいくらでもしゃべってしまう。

■実は、阪神・淡路大震災の21年前に、大きな直下型地震が起こることは予測されていた。大阪市立大学と京都大学が調査をし、「長田・兵庫区はほぼ全滅する」ということまで言われており、まさに同じ事が起こった。にもかかわらず、我々は何も知らず、何も勉強していなかった。それまで40年間、大阪本社管内で死者の出る自然災害が起きておらず、我々が入社してから一度もそういったことに直面していなかった。人間は経験則でしか動けないということが証明されたように思う。当時は、災害報道に関しても様々な批判があった。やらせ報道や、土足取材、盗電など様々な問題が起きた。一方で、死亡者以外の安否情報や生活情報を重複報道するなど、超法規的対応もとられていた。

■震災報道を通して、復興制度がこの国に欠如していることなど様々なことが見えてきた。ここで、「被災者責任」という言葉が出てきた。最初にこの言葉を使ったのは、神戸大学の松村直人さん。「公的補償を求める有志の会ニュース」第1号の巻頭言に、「私たち被災者にはその体験を、全国に、次世代に伝えていかないといけないのではないか」とあり、とてもいい論文で、これから「被災者責任」という言葉が全国に広がった。新聞は客観報道と言われ、「私」という第一人称を捨て去ることを求められる。私は、この時から「被災者責任を共に負う」と、第一人称で記事を書くということを決めた。その理由の一つは、震災報道の温度差。神戸紙面で載ったものが、ほとんど東京では載らない。東京では、結論の分かりやすい「防災」記事ばかりが載り、難しい問題を含む記事量の多い「復興」の記事は載らなかった。実際に災害が起きれば、復興の問題に直面するにも関わらず。こういった災害報道に問題を感じていた。

■国や自治体にとって「復興」は、人口や県民所得や空き地率を指標とした「都市復興」がイメージされている。被災者はどうしているのか、という「人間復興」の視点が欠けているように思う。きれいなマンションが建っても、中に入る住民はよそから来た人ということが起こっている。また、そもそも右肩下がりの被災地にとって、地域を再生するとはどういうことなのかが問われていない。元に戻すことを復興とするなら、右肩下がりの地域は復興に値する地域ではないと見られてしまう。復興をはかる指標を、人と人とのつながりなど違った形で考えていく必要がある。

■被災者の住宅再建の公的補償については、「私有財産自己責任論」によってなかなか実現しなかった。様々な運動の中で1998年に被災者生活再建支援法が制定されるが、購入できるものが厳しく制限されていた。「住宅再建を支援してくれ」と言っていたのが、似て非なるものだった。ことが動くのは、2000年の鳥取県西部地震の時。当時の片山知事が「今目の前で苦しんでいる人をどう救うか」「地域にとって道路も橋も住宅もインフラ」ということで、住宅復興補助金を出した。その後全国知事会などの様々な動きがあり、2007年に被災者生活再建支援法がやっと改正され、住宅再建の公的補償がやっと認められるようになった。

■私が主張しているのは「被災地の自決権に配慮せよ」「コミュニティの継続性に配慮せよ」「被災者の営生権に配慮せよ」「復興の個別性に配慮せよ」「一歩後退の復興に配慮せよ」「法的弱者の救済に配慮せよ」「多様な復興指標に配慮せよ」ということ。今後も、首都直下地震が起こると言われている。現行法で災害多発時代を乗り切れるのだろうか。直面する「被災者の今」をまるごと助けるために、法律、NPO、コミュニティなど、様々な立場からの支援を考え、行政もそれに見合った復興支援制度を作っていかなければならない。「事の支援」とはそういうことだと考えている。