2012年2月3日金曜日

第2回ふくしまをきく会、開催されました

2012年2月3日(金)17:30~

神戸大学国際文化学部F102にて

第2回ふくしまをきく会

「新年を迎えて 福島からのメッセージ 3.11から見えてきたこと そしてこれから起こること」

■講師: 福島県南相馬市同慶寺・仲禅寺住職 田中徳雲さん







会場の様子です。






講演会の最後には、みなさんでこちらの「べこっこロール」をいただきました。

東日本大震災で神戸に避難してきた東北ママのグループ「べこっこMaMa」が神戸・旧慰留地の大人気ケーキショップとコラボしてできあがった、とってもスペシャルなロールケーキです。


Mama達がロールケーキを作っている間に、子どもの遊び相手をしてくれるボランティアを募集しています。

詳細はボランティア支援室まで。


■主催:こうべでふくしまを支える会(仮称)
■共催:神戸大学学生ボランティア支援室

2011年1月27日木曜日

震災ボランティアからのメッセージ 「てんと村に集った若者たち―阪神・淡路大震災、ちびくろ救援ぐるうぷの活動」開催報告

 1月18日(火)、国際文化学部M202教室にて、標記の企画を開催しました。都市安全研究センター学生ボランティア支援室と「生きづらさから考える会」の共催です。
 阪神・淡路大震災が発生した1995年は、各地から多くの人びとが被災地に駆け付け、「ボランティア元年」とも呼ばれました。今回の企画では、そんな「震災ボランティア」として若者時代を生きてきた方々を講師としてお招きし、今の若者たちにメッセージを伝えていただきました。

 講師は、神戸市兵庫区の「ちびくろ救援ぐるうぷ」で事務局長を務められた、よしのさん(当時16歳!)と、同じグループで活動されていた、空(kara)さんです。このグループは、阪神・淡路大震災が起きた際、神戸市兵庫区にある「ちびくろ保育園」に集まった人々による救援活動から始まりました。その後、保育園から近くの公園に拠点を移し、全国から集まった様々なボランティア、特に若者たちを受け入れて救援活動を展開しました。現在、神戸大学生などが全国の災害被災地で展開している足湯ボランティア活動も、このグループが起源です。
 最初に、当時の活動の様子を映像で紹介していただきました。テント村や仮設住宅の内外で、当時10代や学生だった若者たちが活き活きとしている様子がうかがえました。そして、講師のお二人に、スロースペース・ラミの小野洋さんがインタビューする形で、当時を振り返りました。お二人以外のメンバーにも、お話をいただきました。「ちびくろ救援ぐるうぷ」は、被災者/ボランティアという区別を超越した、ひとつのコミュニティであったことが明らかにされました。そして、そこでできた人間関係は今も続いているとのことです。

 参加者は、学生、卒業生、「ちびくろ救援ぐるうぷ」の関係者の方など総勢30名強。今の若者(学生)たちからは、「泥臭い話が聞けた」「『一生の友達を作ってください」という言葉に感動した」「『被災直後はボランティアと生活の境目はなかった』と聞いて、今とは違うなと思った」などの感想が寄せられました。

阪神・淡路大震災16周年記念講演会 神大生へのメッセージ 開催報告

 1月12日(水)、国際文化学部M202教室にて、標記の企画を開催しました。都市安全研究センター学生ボランティア支援室と神戸大学ニュースネット委員会の共催です。
 講師は、兵庫県佐用郡佐用町で小学校の教諭を務められてきた、上野政志さん。当時、発達科学部2年生で20歳だった長女・志乃さんを震災で亡くしました。また2009年8月の佐用町水害では、教え子さんたちが命を落としました。

 そんな上野さんの講演のテーマは、「生きてこそ~1.17を忘れない」。災害というカテゴリーに収まりきらない、生命とは何かというきわめて深遠な内容でした。志乃さんは2日後に成人式を控えていたそうです。授業で提出したレポートには「家族は絶対的なもの」と書いていたそうです。そんな娘さんの突然の死という不条理を、「逆縁」という言葉で表現されました。親は一生、悲しみから逃れられない、だからみんなに忘れないでいて欲しいと訴えられました。上野さんは現在、いくつもの社会活動に携わっておられるとのことで、お話の内容も多岐にわたりましたが、いずれの内容も、生命(人間に限らず)を大切にするという姿勢が滲み出ていました。生と死という、言葉だけでは表現しきれないものを、もどかしいながらも何とか次世代に伝えていきたいという、いかにも教育者らしい上野さんの姿を見ることができました。

 参加者は、学生、卒業生、報道関係者など合計31名。参加者から回収したアンケート用紙は、どれも感想欄に字がびっしりと書き込まれていました。「『物のように扱われる遺体』の体験談に考えさせられた」「生きていることの実感を意識しながら生きていこうと感じた」「“話を聞ける”人になりたい」「(話を聞くことで)理解はできなくても、受け止めることはできるのだと気付かされ、救われた気がした」などの感想が寄せられました。

震災15周年記念連続講座 第3回「苦闘からの教訓―兵庫県の防災と危機管理」開催報告


 10月31日(水)、国際文化学部B102教室にて、標記の講演会を開催しました。日本災害復興学会共催、震災15周年記念連続講座「阪神淡路大震災と私のターニングポイント―3つのキーワードでたどる」の第3回目です。
 今回の講師は、初代兵庫県防災監、兵庫県副知事を歴任された、財団法人兵庫県国際交流協会理事長、齊藤富雄先生です。大震災の教訓を活かした防災対策・危機管理に努めてこられた経験をもとに、災害時の行政の役割についてお話いただきました。
 今回の3つのキーワードは「失敗を活かす」「繋がりを活かす」「人を活かす」でした。齊藤先生は、大震災のときは、家族を田舎に帰し、ご自身は県庁に泊まり込みで災害復興に携わり、その後1996年に初代防災監に就任されて以降も、兵庫県内で起きたさまざまな災害や危機管理事案の対策を指揮してこられました。
 その経験を「実践的危機管理10の視点」という10本の標語に見事にまとめられています。いざというときのために、徒労をいとわずに最悪の事態をイメージし、マニュアルをつくっておくこと、そのマニュアルの欠点を洗い出すために、「失敗する訓練」を重ねること、日常的に使うシステムを非常時にも使うことなど、貴重な教訓を伝授していただきました。そして行政が復興を担う際には、「創造的復興」という発想が重要であることを訴えられました。最後に、今後必ず起こるであろう大地震は数十年後に来る可能性が高いから、次代を担う若者たちに期待したいという、熱いメッセージで締めくくられました。

 参加者は、学生、教員、卒業生、一般企業の方など総勢30名強。「とても聞きやすかった」「進路について考えさせられた」「失敗から成功を得るという考え方に共感した」などの感想が寄せられました。

2010年7月22日木曜日

震災15周年記念連続講座 第2回「災害復興~王道は憲法実践」開催

■7月6日(火)、都市安全研究センター・学生ボランティア支援室主催「阪神・淡路大震災と私のターニングポイント-3つのキーワードでたどる」の第2回「災害復興~王道は憲法実践」を開催し、23名の学生・地域住民が参加しました。

■今回は、神戸大学OBで兵庫県弁護士会災害復興支援委員会委員長を務めておられる弁護士の津久井進先生をお招きし、弁護士活動の原点となった司法修習生時代の震災ボランティアの経験や、その後の災害法制への関わりなどをお話し頂きました。今回の3つのテーマは「支援と法」「憲法の使い方」「災害復興基本法を」でした。


■津久井先生は、埼玉県で司法修習生をしていた時に阪神・淡路大震災を経験。神戸周辺の家族や知人にすぐに連絡をしますが、テレビで阪神高速が倒壊している状況を目の当たりにすることで一気に実感がわき、司法修習生仲間に声をかけて被災地神戸へ駆けつけました。当時、関西以外出身の仲間がテレビを見ながらも「よその出来事」として日常を過ごしている様子を見て、どんな出来事も他人事として捉えず「イメージ」することの大切さを痛感し、その後の当事者の視点に立った支援というスタンスへつながりました。



■被災地では、神戸大学を中心に避難所やテント村の支援を行っていた「神戸大学学生震災救援隊」や「神戸大学法律相談部」と共に活動し、国際文化学部体育館避難所で主に風呂焚きボランティアとして活動しました。他にも、避難所での無料法律相談なども実施し、「法律は、途方にくれた被災者の心を明るく照らす存在でなければならない」という思いを強くしました。また、法律相談の原点は「聴くこと」だと考え、被災者の気持ちを創造して話を聴くことを大事にしていました。後に、弁護士だけでは対処できない問題も多数出てきたことから、税理士、建築士、司法書士などと協力する「阪神・淡路まちづくり支援機構」という組織を作って今でも事務局を務めています。



■被災者にとって必要な法とは何か考えたとき、憲法こそ復興の基本法ではないかと考えています。憲法は、戦後の焼け野原からなんとか立ち上がって日本を復興させようと作り上げたものです。また、ボランティア活動というのは「市民の市民による市民のための自律的な活動」という意味で、国民主権、そして憲法全体を実現しているものと言えます。さらに、海外で活動する災害ボランティアこそまさに、憲法前文にある「国際社会において名誉ある地位を占める」ことに貢献しているとも言えます。



■憲法のスピリットを活かしながら、被災者の拠り所となる法律を作ろうと、現在「災害復興基本法案」を作成し、実現に向けて行動しています。復興の理念が、教育を通して子どもたちに継承されていくことを願っています。


■参加した学生からは「災害やボランティア活動について憲法との関係で説明してもらえてわかりやすかった」などの感想が寄せられました。



■次回は、10月13日(水)17:30~元兵庫県副知事の斉藤富雄先生をお招きして講演会を実施しますので、ぜひご参加下さい。

2010年5月20日木曜日

講演会「貧困と野宿を考える-野宿者襲撃と若者たち-」を開催


■5月11日、学生ボランティア支援室の新入生歓迎講演会「貧困と野宿を考える-野宿者襲撃と若者たち-」を実施しました。

■4~5月にかけて実施した「「夜回り」で野宿している人に出会ってみませんか?」という企画とともに、学内で野宿者問題・貧困問題への理解を深める取り組みの一環として行いました。講演会には、新入生、上級生、教職員、地域住民の方合わせて30名以上が参加しました。

■講師の生田さん(野宿者ネットワーク代表、ホームレス問題の授業づくり全国ネット共同代表)は、学生時代に初めて大阪・釜ヶ崎を訪れ、その後25年以上日雇い労働者や野宿者の支援活動に携わってこられました。初めて釜ヶ崎を訪れた時、野宿者はやはり普通の人と何か違うのだろうかと思っていたけれど、話をしてみると、高齢でアルミ缶集めなど重労働をしながら生活している人たちはとてもまじめで、「人様の世話にならず働いて生きていきたい」と語る人も多く、「日本では正直者が野宿しているのか」と衝撃を受けたそうです。

■生田さんは「全国で不安定就労から失業、貧困、野宿へ」という流れが広がっていると語ります。最近は、女性や若者の野宿も増えていて、「派遣の仕事がなくなって寮を出て行くところがない。生活に困って知り合い何人にも借金して、その返済に困っている」という30歳の男性からの相談などがあるそうです。

■野宿している人への夜回りを続けながら、直面する最大の問題の一つが「襲撃」だと言います。殴る蹴る、エアーガンで撃ちまくる、生卵をぶつけるなどの襲撃をこれまで何百回も聞いてこられ、一番ひどかった例では、いきなりナイフで眼球を突かれたということもあったそうです。やっているのはほとんどが10代の少年グループで、つっぱりもいれば優等生もいて、誰がいつ野宿者を襲うかわからない状況です。その背景には、大人が「ホームレスとは目を合わせてはいけない」「喋りかけられても無視しなさい」「あんな風になりたくなければ勉強しなさい」など、差別的な発言をしていることが影響しているのではないかとのことでした。ちなみに、「子どもが野宿者を襲うことはあるが、野宿者が子どもを襲った話を聞いたことはほとんどない」そうです。

■欧米では、1980年代では若者の失業や野宿が増え始め、今では日本とは比較にならないほど多くの人が野宿をしているそうです。「日本は欧米を20年遅れで追いかけている」と言われ、現在は親に支えられて生活している若年の不安定就労者が、今後野宿になる可能性は高いとのことです。

■生田さんは最後に「高校生が100人いれば全員違うように、ホームレスってこんな人たちというのはない、一人一人と話していくしかない」「世の中の野宿している人や貧困状態にある人を、これまでと違った目で見てもらえるとありがたい」と語って講演を終えました。

■参加した学生からは「自分自身の問題だと感じた」「ホームレスの人も私たちと変わらない普通の人だと感じた」「子どもへの教育が重要」などの感想が寄せられました。

2010年5月13日木曜日

2010.4.21 阪神・淡路大震災15周年記念連続講座 第1回「記者ときどき被災者~災害復興事始め」を開催




■2010年4月21日木曜日の夕方、神戸大学国際文化学部B102教室にて、阪神・淡路大震災15周年記念・連続講座「阪神・淡路大震災と私のターニングポイント-3つのキーワードでたどる」の第1回が行われました。(主催:学生ボランティア支援室)

■記念すべき第1回目は、「記者ときどき被災者~災害復興事始め」と題して、関西学院大学災害復興制度研究所主任研究員の山中茂樹先生をお招きして講演会を行いました。参加者は10名程でしたが、その分密にじっくりお話を聴くことができました。

■山中先生は、阪神・淡路大震災が起こった当時、朝日新聞社の記者をされていて、その後、災害をテーマに取材を続けて来られました。以下は、山中先生の講演内容の要約です。

■1969年に朝日新聞に入社した。当時は、「保守/革新」「反米/反ソ」など分かりやすい対立軸があり、新聞にとってはやりやすい時代だった。今のように価値観が多様化して書きにくいということはなかった。私は、60年代反安保、70年代反公害、80年代反差別、90年代人間復興を追いかけながら、この国の形を問い続けることを生涯のテーマにしてきた。

■1995年1月17日、当時私は神戸総局のデスクをしていた。その日は大阪の吹田の家にいた。大阪も揺れがひどく、ぐるぐる回るような感じで立ち上がれなかった。最初は、淡路島がやられているという情報が入った。電車が止まっていて、タクシーで向かおうとしたが途中から進まなくなる。ラジオを聴いていると、だんだんすさまじいことを言い始める。そこからとりあえず家に帰りTVをつけると、神戸は大変なことになっている。「これで行かなければ辞表だ」と思い、飛び出して車を拾った。大阪も信号は止まっている。本社に向かい、そこから車で神戸へ向かう。周りは家が倒れ、高速道路が倒れ、泣き叫んでいる人がいる、すさまじい状況。午前11時頃本社を出て、三宮に着いたのは午後4時。三宮は土埃が街中を覆って、しーんとしてゴーストタウンのよう。神戸支局の建物に入って、ライターをつけて階段を上った。今になって思えば、ガスでも充満していたら大変で、危機管理意識がなかったと痛感する。こういった話はいくらでもあり、震災体験者というのはいくらでもしゃべってしまう。

■実は、阪神・淡路大震災の21年前に、大きな直下型地震が起こることは予測されていた。大阪市立大学と京都大学が調査をし、「長田・兵庫区はほぼ全滅する」ということまで言われており、まさに同じ事が起こった。にもかかわらず、我々は何も知らず、何も勉強していなかった。それまで40年間、大阪本社管内で死者の出る自然災害が起きておらず、我々が入社してから一度もそういったことに直面していなかった。人間は経験則でしか動けないということが証明されたように思う。当時は、災害報道に関しても様々な批判があった。やらせ報道や、土足取材、盗電など様々な問題が起きた。一方で、死亡者以外の安否情報や生活情報を重複報道するなど、超法規的対応もとられていた。

■震災報道を通して、復興制度がこの国に欠如していることなど様々なことが見えてきた。ここで、「被災者責任」という言葉が出てきた。最初にこの言葉を使ったのは、神戸大学の松村直人さん。「公的補償を求める有志の会ニュース」第1号の巻頭言に、「私たち被災者にはその体験を、全国に、次世代に伝えていかないといけないのではないか」とあり、とてもいい論文で、これから「被災者責任」という言葉が全国に広がった。新聞は客観報道と言われ、「私」という第一人称を捨て去ることを求められる。私は、この時から「被災者責任を共に負う」と、第一人称で記事を書くということを決めた。その理由の一つは、震災報道の温度差。神戸紙面で載ったものが、ほとんど東京では載らない。東京では、結論の分かりやすい「防災」記事ばかりが載り、難しい問題を含む記事量の多い「復興」の記事は載らなかった。実際に災害が起きれば、復興の問題に直面するにも関わらず。こういった災害報道に問題を感じていた。

■国や自治体にとって「復興」は、人口や県民所得や空き地率を指標とした「都市復興」がイメージされている。被災者はどうしているのか、という「人間復興」の視点が欠けているように思う。きれいなマンションが建っても、中に入る住民はよそから来た人ということが起こっている。また、そもそも右肩下がりの被災地にとって、地域を再生するとはどういうことなのかが問われていない。元に戻すことを復興とするなら、右肩下がりの地域は復興に値する地域ではないと見られてしまう。復興をはかる指標を、人と人とのつながりなど違った形で考えていく必要がある。

■被災者の住宅再建の公的補償については、「私有財産自己責任論」によってなかなか実現しなかった。様々な運動の中で1998年に被災者生活再建支援法が制定されるが、購入できるものが厳しく制限されていた。「住宅再建を支援してくれ」と言っていたのが、似て非なるものだった。ことが動くのは、2000年の鳥取県西部地震の時。当時の片山知事が「今目の前で苦しんでいる人をどう救うか」「地域にとって道路も橋も住宅もインフラ」ということで、住宅復興補助金を出した。その後全国知事会などの様々な動きがあり、2007年に被災者生活再建支援法がやっと改正され、住宅再建の公的補償がやっと認められるようになった。

■私が主張しているのは「被災地の自決権に配慮せよ」「コミュニティの継続性に配慮せよ」「被災者の営生権に配慮せよ」「復興の個別性に配慮せよ」「一歩後退の復興に配慮せよ」「法的弱者の救済に配慮せよ」「多様な復興指標に配慮せよ」ということ。今後も、首都直下地震が起こると言われている。現行法で災害多発時代を乗り切れるのだろうか。直面する「被災者の今」をまるごと助けるために、法律、NPO、コミュニティなど、様々な立場からの支援を考え、行政もそれに見合った復興支援制度を作っていかなければならない。「事の支援」とはそういうことだと考えている。

2009年10月2日金曜日

2009年度地域に根ざし人に学ぶ実践塾「神戸の定住外国人の歴史と現状」報告

2009年7月31日
 学生ボランティア支援室にて事前学習会を開催しました。学生6名+スタッフ2名が参加しました。在日外国人を取り巻く課題や政策について学習した他、参加者がそれぞれに抱いている外国人へのイメージなどを話し合いました。

2009年8月25日
 NPO法人神戸定住外国人支援センター" moi "にて学習支援活動の実習を行いました。ベトナム、南米、フィリピン、中国等にルーツを持つ子どもたちに一対一で勉強や日本語を教える活動を2時間から4時間程度行いました。学生4名(+スタッフ1名)が参加しました。

2009年8月27日
 NPO法人神戸定住外国人支援センター、" moi "にて学習支援活動の実習を行いました。学生2名が参加しました。実習内容は25日と同様でした。

2009年8月31日
  神戸在日コリアン保護者の会代表キムシニョン氏によるレクチャーと長田区フィールドワークを実施しました。在日コリアンの歴史と現状についてキムシニョン 氏からお話いただいた後、長田区内のケミカルシューズ工場の見学やキムチ店でのキムチ作り体験、朝鮮学校や母語教室の見学などを行いました。学生7名+ス タッフ2名が参加しました。

2009年9月2日
 午前10時JR元町駅に集合し、「海外移住と文化の交流センター」にて、日伯協会の黒田氏よりレクチャー及び展示解説をしていただきました。その後、北 野地区の宗教施設や異人館等を見学するフィールドワークを行いました。午後3時より、神戸市長田区のたかとりコミュニティセンターに移動し、NGOベトナ ム代表のハ・ティ・タン・ガ氏のレクチャーを受けました。ベトナム-インドシナ難民が発生した背景やボートピープルとして来日した状況、その後の日本での 暮らし等について話を聞きました。その後、全体の振り返りを行いました。学生7名+スタッフ2名参加。


"moi"での、学習支援活動の様子



キムシニョン氏によるレクチャーの様子


長田フィールドワークの様子。キムチ店にて、キムチ作りを見学。




西神戸朝鮮初級学校の見学



神戸・北野山本通のフィールドワーク。(ジャイナ教寺院)



北野山本通フィールドワークにて、ハラールフードショップの見学

2009年度 地域に根ざし人に学ぶ実践塾「大阪における野宿と貧困の問題」報告

2009年7月24日
 事前学習会を学生ボランティア支援室で実施しました。学生8名が参加し、野宿と貧困という問題の構造的背景や基本的な事柄について学習し、「ホームレス」という言葉から浮かぶイメージなどについて話し合いました。

2009年8月8月20日
  午後7時30分、JR新今宮駅に学生13人が集合し、午後9時から、木曜夜まわりの会の小栁伸顕さんから40年にわたる釜ヶ崎との関わり、夜まわりの実践 などについてお話を伺い、つづいて10時30分から夜まわりに参加しました。釜ヶ崎から新今宮駅、阪堺線恵美須町駅、新世界、動物園前を経て釜ヶ崎に戻り ました。この日、夜まわりのコースでは約320人の野宿者を数えました。


2009年8月21日
 午前4時45分、あいり ん総合センターで朝の寄せ場を見学しました。シャッターが開くと同時に仕事を求める労働者が一斉にセンターに流れ込みました。センターでは西成労働福祉セ ンターのセンター長であるありむら潜さんからセンターの業務内容をお聞きしました。午後2時からは西成プラザにて日本学術振興会特別研究員の原口剛さんか ら釜ヶ崎がいまのような姿に「作られ」た歴史をお伺いし、続いて釜ヶ崎をまち歩きしました。午後5時からは映画「Public Blue」を視聴し、明日予定されているテント村について事前学習しました。


2009年8月22日
 朝10時から大阪に 残った唯一のテント村である西成公園で野宿者の方と、学生6人で交流会を行いました。野宿者が排除されていきつつある現場で野宿者からお話しをお伺いし、 生活保護や居住といった問題について、現場の声を聞くことができました。午後2時からは(株)ナイスくらし応援室・室長の佐々木敏明さんから、野宿者の居 場所づくりに関する実践をお伺いしました。


2009年8月23日
 午前10時から大阪人権博物館リバティおおさかを学生 6人と見学しました。午後12時30分から大阪城公園にて、大阪城公園よろず相談所の協力で、パペット制作のワークショップを行いました。ワークショップ には明治学院大学の学生も加わり、ありふれた廃材などで、自分たちの主張を楽しみながら色彩豊かにアピールする手法を学習しました。制作後は、公園内から 大阪府庁前を経由して天満橋まで行進を行いました。

2009年8月27日
 午後2時30分から学生ボランティア支援室にて学生4人と振り返り学習会を行いました。講師には日本学術振興会特別研究員の原口剛さんをお招きしました。



釜ヶ崎にある「旅路の里」にて、感想を話し合う参加者


あいりん総合センターにて


西成公園にて、テント村に暮らすみなさんの話を伺う



西成プラザにて原口さんのお話を伺う。



カマンメディアセンター





大阪城公園にて、「青空大学」のパペット製作の様子



完成したパペットを手に、天満橋までパレードを行った。

2009年度地域に根ざし人に学ぶ実践塾「能登半島地震被災地・3年目の課題と地域の魅力」報告

2009年8月3日

 神戸大学学生震災救援隊BOX(国際文化学部内)にて、事前学習会を実施しました。能登半島地震発生当時の状況、被害や復興の状況などについて報告がなされた他、参加者それぞれの地震の経験や被災地の問題について話し合いました。学生9名+スタッフ2名が参加しました。

2009年8月9日から8月12日

能 登半島の穴水町に滞在しながら、実習を行いました。10日には有機農法を実践する農地の見学、自然体験指導者養成講座、カヌー体験を行いました。夕方には 穴水町の来迎寺住職の講話をお聞きました。

11日には金沢大学が主催するスタディーツアー「奥能登の景勝地から地震にせまる」に参加し、夕方より輪島市山 岸仮設住宅の元区長藤本幸雄さんのお話を伺いました。

12日には穴水町の住民へ足湯を実施し、穴水町大町仮設住宅元生活援助員皆森照子さんのお話を伺いま した。午後からは輪島市内の復興公営住宅を訪問しました。学生14名+スタッフ3名が参加した他、金沢大学や長岡技術科学大学の学生とも交流を行いまし た。

2009年9月8日

 神戸大学学生震災救援隊BOX(国際文化学部内)にて、振り返りの会を行いました。写真やビデオを見て実習を振り返りながら、参加者がそれぞれに感想を述べました。学生7名+スタッフ2名が参加しました。



輪島市三井にある新井さんの田んぼにて


穴水町でのカヌー体験の様子


穴水町の来迎寺にて


金沢大学主催のスタディーツアー(輪島市竜ヶ崎)


穴水町の「江尻屋」にて足湯の実施

2009年9月24日木曜日

2009.9.18-9.21 能登半島の伝統行事「お熊甲祭り」に参加してきました



 能登半島の七尾湾に面した熊木郷と呼ばれる地域では、毎年9月20日に、久麻加夫都阿良加志比古神社(くまかぶとあらかしひこじんじゃ)の大祭が行われています。天狗の面をつけた猿田彦を先頭に、枠旗と呼ばれる20メートル以上の高さを誇る深紅の旗を担いで宮入をする行事は、国の重要無形民俗文化財に指定されています。

 しかし、近年では人口流出や高齢化によって枠旗や御輿の担ぎ手が減り、枠旗を出せない集落が出てきています。そこで今年は、七尾市西岸地区の壮年団が組織する「どぼんこ・さるたひこ地域協議会」の呼びかけに、神戸の被災地NGO恊働センターと神戸大学学生ボランティア支援室が応える形で、都会の学生が能登の伝統文化に参加する企画「お熊甲祭りに参加しよう」が実施されました。

 企画には、神戸大学及び神戸学院大学の学生、さらに被災地NGO恊働センターのメンバー総勢約30名が参加しました。




 祭り前日の9月19日には、小牧集落の小牧白山社という神社で、祭りに使う木枠を磨く作業や、装束の準備をしました。また祭りのために作られる料理「祭りごっつお」に使うイイダコ釣りや、ごっつお作りを習う料理教室に参加しました。

 20日の祭り当日には、神戸の学生たちも集落の人たちと同じ装束に身を包み、枠旗を担いで宮入を行いました。地域の伝統行事に参加した経験は、多くの学生にとって、地域文化や都市農村の交流を考える貴重な経験となりました。

2009年6月12日金曜日

2009.4.24 新入生歓迎講演会 「私たちの身近にいる見えにくい外国人――日本に定住する外国人の現状――」

■2009年4月24日金曜日の夕方、神戸大学国際文化学部B102教室にて、新入生歓迎講演会が行われました。(主催:神戸大学学生震災救援隊、共催:神戸大学総合ボランティアセンター、学生ボランティア支援室)

■NPO法人「神戸定住外国人支援センター」理事長の金宣吉(キムソンギル)氏による「私たちの身近にいる見えにくい外国人――日本に定住する外国人の現状――」と題した講演会には、新入生、上回生、教職員、地域住民の方を合わせて40名以上が参加しました。

■講師の金さんは、神戸生まれの母親と東京・板橋生まれの父親の間に生まれた在日3世です。以下は、金さんの講演内容の要約です。

■金さんが生まれ育った在日朝鮮人ばかりが暮らす長田の町では、冠婚葬祭は荒々しく騒がしいのが普通だったという。子ども時代は、散髪に連れて行かれた「中華の散髪屋さん」や、三宮でよくすれ違った「顔の小さいインド人」が、自分にとっての「外国人」のリアリティだった。



■当時、在日の人たちが置かれた状況は厳しいものだった。仲の良かったマチャキという友達を映画に誘った時のことだ。彼が母親に「映画に行くから20円くれ」と言った瞬間、烈火の如く怒られた。今思い返せば、結核だった彼の父親の薬代を出すために、母親が一日中ミシンを踏んでいたのだった。在日は外国人だから"国民"健康保険には入れない。子ども心に、医療費の違いも分かっていた。それでも、同じ在日の家が30軒ぐらいある中では、そんなに不公平な感じでもなかった。子どもの頃の感覚というのは、得てして相対的なものなのかもしれない。

■最近では百円ショップで韓国姓のハンコが売られるようになったりと、ちょっとした変化を感じつつあるものの、外国人へのステレオタイプなイメージはまだまだきつい状況が続いている。「金さんのお国の韓国は・・・」と言われたりするが、自分のふるさとは間違いなく神戸だし、紅茶コーヒーを好む神戸の文化が、自分には色濃く影響している。そんな金さんが初めて韓国に行った22歳の頃、当時は韓国に行くことは怖いことだと言われる時代だった。今では区別がつかないが、その頃は着るものも靴も日本と韓国では全然違っていたから、向こうに行けば、自分は日本人として扱われることもあった。

■今は金という名前でこの場所に立っているが、自分が生まれた時には違う通称名が付けられていた。通称名は、非常に短い期間、日本が半強制的に行ってきたものだが、戦後、通称名をやめる人はほとんどいなかった。これは昔の話ではなく、現在、日本に暮らすベトナム人の多くが本名ではなく通称名を使っている。なぜそういうことになるのか。ここに見える外国人と見えない外国人という問題がある。

■見える外国人とは白人の外国人のことだ。見た目が違う、言葉が違うということで、日本人が意識している外国人がいる。ところが、神戸に暮らす在日や華僑への関心は希薄だ。たとえば姫路にも国際交流協会というのがある。彼らの仕事は姫路の子どもたちが国際人になることだと言い、姫路の皮革産業を支えているベトナム人には関心が向かない。つまり日本人が見たい外国人しか見ていないことにすら気づいていないのだ。

■日本は現在、日系人を労働力として受け入れているが、それは「日系人は日本文化に適応しやすいから」という理屈が未だにまかり通っているから。在日1世のための介護サービスを提供するために、資料を韓国語に翻訳したいという市の職員は、在日1世が読み書きできない状況に置かれてきたことをまったく理解していない。多文化共生の会議に出れば、18人のうち17人が日本人の血統。そういう状況で、多文化共生を謳えるのか?共生とはとてもデリケートな問題。自分たちは参加しないと言えることを確保することが大事だと考えている。そういうことでなければ少数者の文化を保持できないのではないかと考えている。

■自分たちは今、定住外国人の子弟には高校程度の学力をつけさせることを目標にしている。せめて社会に参加する権利を獲得させたい。大学には外国人子弟の優先枠を作る必要もある。均質な社会ではなく、多様性のある社会を作り、違いを認めるために必要なことだと思う。


■質疑応答
Q:これまで生きてきていやだったことや傷ついたことは?
A:傷つけないでいようと思うこと自体が失礼なこと。知らずに育ってきたから当たり前だが、興味本位でなく知ろうとする姿勢があれば、あとは個人の問題。相手を傷つけないようにいようと思えば、何人同士であっても臆病になってしまうから、そういう必要はないと思う。

Q:サラリーマンをされていた頃、なぜNPOをやろうと思ったのですか?
A:若気の至りで。大学時代、あるサークルに入って、世代交代していく中で、つい自分が手を挙げてしまったようなこともあった。

Q:帰化しようと思ったことはあるか?
A:ない。帰化という前提がおかしい。アメリカ大統領のオバマさんが、日本で生まれていたら彼はケニア人だった。日本の国が、旧植民地出身者を外国人としたから自分は外国人ということになっている。そういう自分がなぜ日本政府にお願いして日本人にしてもらわねばならないのか。帰化という方法でしか日本人になれないということ自体がおかしい。

Q:国際化について思うところを聞かせてほしい
A:国際化という言葉の限界が出てきて、多文化共生という言葉が代わりに出てきたのかもしれない。

2009.4.5 社会貢献・ボランティア活動説明会「ボランティアへの誘い」

■新年度に入り、新入生のみなさんにボランティア活動や社会貢献活動に興味を持ってもらうきっかけとしてもらうことを目的に、2009年4月5日、神戸大学の百年記念館・六甲ホールにおいて、「ボランティアへの誘い」と題して、講演会と活動説明会を行いました。

■全体の参加者は31名、そのうち7名の新入生を迎え、前半は本学国際協力研究科のロニー・アレキサンダー先生に講演していただきました。


■講演では、「ボランティアって何だろう?」というアレキサンダー先生によるい問いかけから始まり、ボランティアは社会に必要かどうかという問いかけに答える形で、会場に伸ばしたロープを軸に見立てて、参加者それぞれが考える位置に立ってもらいました。

■参加した学生からは「ボランティアが必要ないぐらいの社会を目指すべきだ」という意見を述べる学生や、「やはり誰かが手助けしてくれる社会の方がいいのではないか」など、多様な意見が発表されました。

■その後、アレキサンダー先生自身がボランティア活動を始めた時のきっかけや、幅広く広がるボランティア活動を紹介し、最後には、「ぜひボランティア活動に参加してみよう」という熱いメッセージで締めくくられました。




■後半は、既に社会的な活動やボランティア活動に取り組んでいる団体の学生のみなさんに、活動紹介や新入生へのメッセージなどを発表してもらいました。

■神戸大学に留学してきた学生の支援活動に取り組むTruss、震災をきっかけに設立された学生震災救援隊や総合ボランティアセンター、それから阪神・淡路大震災関連の報道を続け、学内メディアとして活躍するニュースネット委員会のメンバーが、パワーポイント等を用いて、壇上から活動を紹介しました。


■講演会と活動紹介が終了した後は、会場の外で団体ごとにブースに分かれての説明会が行われました。新入生への説明だけでなく、団体同士の交流も進み、当初の予定よりも30分以上、時間を延長して大いに盛り上がりました。

2009.2.23~2.27 ボランティア講座現場実習「被災地の復興と被災者の生活再建」分野

■概要

 2月23日から2月27日の5日間に亘り、ボランティア講座「被災地の復興と被災者の生活再建」分野の実習が行われました。定員15名に対して応募11名、実際の参加者は10名でした。この実習は、本学都市安全研究センター学生支援GPの企画「地域に根ざし人に学ぶ実践塾」との連携で実施されたものです。



 初日23日は一日移動に費やし、2004年の新潟県中越地震、および2007年の中越沖地震の被災地へと向かいました。

 二日目24日は、「復興支援ネットワーク『れんと』」と「中越復興市民会議」の協力のもと、被災地である新潟県柏崎市に出来たネットワーク内の障害者作業所等で、数チームに別れて実習を行いました。

 参加した学生は、利用者の方がいきいきと過ごしておられるそれぞれの施設の雰囲気に触れると同時に、中越沖地震の際に、障害を持った方や施設の方が苦労されたことについて話を聞くことができました。地震による直接的なケガはなかったものの、精神的なショックで地震後に症状が悪化して4人もの方が亡くなったという話。水不足が深刻化し、薬を飲むために水をもらいにいったところ、「老人と子ども用の水だ」と言われもらえなかったこと、普段トイレを使う人もオムツを使わざるをえなかったこと、食器も洗えなかったため3食とも普段は食べないレトルトのおかゆを食べざるをえなかったことなど、「水がない」ということにより、不都合な状況がさまざまな場面で引き起こされるという話をお聞きしました。

 また知的障害を持った方は生活のリズムがずれるとパニックになったり、こだわりの強い方は、たとえ崩れそうでも自分の家のいつも寝ている場所でしか寝られないということや、地震による環境の変化で、また一から新しい習慣を身につけねばならなくなったといった話を聞き、「社会的弱者が震災の時に置かれる状況がすごく勉強になった」と感想を述べた学生もいました。

 3日目25日は、午前中は前日の実習内容をふまえつつ、今後の実習に関するオリエンテーションを行いました。午後からは中越沖地震で被害を受け作られた新潟県柏崎市宮川地区仮設住宅にて、自治会の協力のもと、足湯ボランティアを行いました。

 足にお湯をつけてもらい、学生は手をもみ、リラックスしてもらうなかでコミュニケーションを取る足湯では、何気ない会話の中からふと重要なお話を聞くことができます。今回参加した学生も、足湯を通したあたたかいふれあいから、さまざまなお話を聞くことができました。中越沖地震の際に、揺れた瞬間の生々しい話や、神戸から食器類が送られてきたといった体験談。あるいは復興に関する運動に携わっている住民の方による、「地域を越えて」というモットーで活動しているというような復興への取り組みについてなど、貴重なお話をたくさん聞くことができました。




 4日目の26日は、午前中は「中越復興市民会議」の鈴木隆太氏に案内してもらいながら、山古志村内の様子を見て回って復興の様子を学ぶフィールドワークを行いました。午後からは、「竹沢よりみち倶楽部」と「中越復興市民会議」の協力のもと山古志村の住民の方に先生になってもらい、雪かき・雪下ろしの実習をしました。終了後には住民の方との交流会を行い、最終日27日の朝、神戸に向けて出発しました。





■参加者感想

 震災ボランティアといわれてイメージするのは、地震直後にその震災地域に行って倒壊した建物の処理を手伝ったり、被災者への炊き出しなどの物資支援をしたりするものだとすぐに思いつく。少なくともぼくはそうである。実際にそのような活動はあるのだが、今回ぼくが体験したボランティアというのは、そのような活動をするというよりむしろ、「それを通じていろいろな人達に出会わしてくれる」という方が表現としてしっくりくるのではないかと、終わった今さらながら、そう思う。

 でも、当初の想いは全く違っていた。今までボランティア経験をあまりしてこなかった自分として、ボランティア講座を申し込んだときの気持ちの持ちようとして、今回の参加が、自分の中での何らかの変化をもたらすのではないか?という期待を多いに寄せていた。しかし、いざ23日を迎えると、そのような期待とか全く感じず、目の前に差し迫った「ボランティア」という得たいの知れないものに、少し尻ごみしていて、正直に言うと、何もできない自分がいるのではないかとビビっていたのである。

 初日の実習先の「夢工房」さんでは、実際の実習よりもお話や休憩時間の方が長かったかもしれない。けれども、そのことが逆に、会話をする機会が多く与えられ、震災当時の障害者の苦労話とか、刈羽村の二重被害を受けた事実とか聞けた。特に、利用者の一人のなかには、震災時、避難所で生活をしていたのだが、薬を飲むのに、水が必要だったので、避難所の役員の人に水をもらいに行ったが、役員の人が、水の供給は、子供と老人にしかできないとして、利用者への水をあげなかったのだ。

 外見では障害者とは判断がつかないために、苦労を重ねる場合もありうるということに初めて気づかされた。なんだか複雑な気持ちだった。普通に生活したいけれど、「障害者」でいなければいけないという時があることに。でも、苦労せねばならい環境に置かれても、人はめけず生きているのだ。「夢工房」で出会った人たちの方が、よっぽど自分なんかよりメンタル面で強いのだと、感じたのが初日であった。




 二日目の宮川地区の人々と交流会では、震災当時についてお話させていただく機会が午前中にあった。宮川地区の人々のみなさんが口をそろえていっていたことは、「忘れかけていた震災当時の記憶が再び、思い起こされるな」と……それを聞いて、なんだが意外だなと感じた。あれほどショッキングな事柄がおきると、どんなに時間がたっても、どんなことが起きても、記憶が風化していくはずがないと考えていたからだ。けれでも、案外、風化していくのが当たり前なのかもしれない。

 それは別に宮川地区の人々に限定されることではない、山古志村の人々たちだって、震災の話を振らない限り、そういう話題にならなし、もし震災当時の話になると、なつかしそうに語ってくれた。一緒に雪かきや餅つきをしていても、ここで、本当に震災があったのかと自分の目を疑うほど、山古志村の人々は元気であった。そのことが、何よりも不思議で仕方なかった。そして確かに言えることは、都会育ちで、大きな震災の被害をあまり受けたことのない自分が、逆に元気をもらったという事実である。





 震災は心に大きな傷痕を残すかもしれない。生活環境が180度変わるかもしれない。けでども、震災があったからと言って、猫の同じように、いつまでも炬燵の中でぽかぽかと温まっていては、何もできやしない。炬燵の中からでてきて、どんなに寒くても、どんなに風が強くても、前を向いて大きく歩みだすことが大切なことである。ぼくは新潟にきて、いろいろな人たちに出会えたからこそ、そのような「戯言」を言えるだと思う。
(国際文化学部・男)

2009.1.13-17 パネル展示「1.17 記憶の回廊 ~阪神・淡路大震災と神大生の14年~」


■震災のことを知らない学生や教職員のみなさんに、震災のこと、そして震災をきっかけにはじまった学生たちの実践を知ってもらうことが、このパネル展示の目的でした。

■1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災は、神戸大学にも大きな被害と悲しい出来事をもたらしました。しかし、震災は神大生が社会的活動に取り組むきっかけにもなりました。

■あの日から14年が経った現在、災害被災地の支援や地元神戸でのボランティア活動、留学生の支援など、神大生の社会貢献活動は幅広く展開されています。活動に取り組む学生たちは、多くの経験を通じて人間的な成長を遂げてきました。

■そうした学生たちの実践は、私たちがこれから、どのように災害リスクと向き合っていくべきか、どのように地域貢献に取り組んでいくべきかということを考える上で、大切なヒントを与えてくれます。







■参加者の感想 (アンケートより抜粋)

 忘れ去れ行く大震災、学生諸君がこの事を心にとめ、継承されることについて感動しています。大切な資料です。大事に保管し、後世の人に伝えて行ってください。大変にご苦労様です、さすが神大生です!!ありがとうございました。
(灘区在住 66歳 会社役員)

 私は震災当時のことをあまり覚えておらず、また勉強不足のため、震災の様子やそれを支える活動について、分かりやすく目にすることが出来て、とても良かったです。
 私は神戸出身ではないのですが、大学でこっちに住み、被災者の方と触れる機会やボランティアに参加する機会がせっかくあるのだから、ぜひ参加しようと思いました。14年経ちましたが、当時の人々の助けあいの気持ちを今も忘れないでいたいです。
(国際文化学部1回生)

 自分のこととショック一杯で、周りが見えない日々が続いていました。今日のようにやはり、パネルなどで紹介し、語りつぎ、又、何かに役立つ事は一杯あると思います。なくなった方も、成人され、就職し、親の立場から見ると、つらい日が来ますが、子供さんの分迄、元気で頑張ってほしいと思います。
 ボランティアもなかなか、出来る事ではありませんが、人のため、世の中のため、私たちができること一つでも役に立ちたいものです。
(東灘区在住 57歳女性)






2008.12.10 連続講演会「生き難い社会を乗り越え て」 第3回 (「セクシャルマイノリティー」 )


■ロニー・アレキサンダー先生は、2000年に自らが同性愛者であることをカミングアウトしていらっしゃいます。しかしそのことを公にできるまでにはたくさんの苦悩がありました。

■レズとからかわれ、言葉の意味もわからないまま自分が悪い子だと思い込んで過ごしたこども時代。性的指向に気づき、悩み、「レズビアン」と口に出すに至るまでの数十年。親にも友人にも現実を受け入れてもらえない日々…。仕事での来日を機に一度は異性愛者になろうと決意しました。しかし、自分は異性愛者と思い込むことは可能でも、実際にそうなることは不可能です。長い間かかったものの、そのことに気づいた先生は、本当のことを自分の中にしまいこむ生活に終止符を打たれました。

■今回の講演会では、本当の自分を隠しているときやカミングアウトをしたときなどの心境の変化、カミングアウトをしてからの環境の変化。そういったことを当事者のアレキサンダー先生からお話していただき、セクシャル・マイノリティーの抱える生きづらさ、多様性を認める社会の大切さ、その他、たくさんのことを学び取れました。






■参加者の感想

 平和にとって重要なものは?という問いの答えに、私は「多様性」を選びました。しかし、正しくは「多様性の享受」だと思いました。男と女があってもいい。インターセックスでもFtMでもMtFでもいい、というのが大事かなと思います。そして「多様性の発見」。ひ一つの面、一つの箱だけ見て否定するのではなく、いろんな箱を見るのも大事です。
(文学部1回生 山本真由美)

 「10人にひとりはセクシャルマイノリティーがいる」ということを聞いて、ただ単に気づいていないだけの人が多いんじゃないかと思った。事実絶対そうで、「周りにそういう人がいなかったから・・・。」って言うけど、当事者が言うまで認識していないだけだ。そして、なかなか言えない社会が悲しいなと思う。カミングアウトと言う形をとらざるをえない社会、受け入れる、拒否という形が表れてしまうのは価値観の違いだけれど、認めあえることが必要だと思う。

 最初はセクシャルマイノリティと平和(暴力)の話がどういうつながりがあるんだろうって疑問だったんですけど、セクシャルマイノリティに対する直接的暴力、構造的暴力、文化的暴力が存在すると知りました。平和って「目に見える暴力がない状態」ではないと感じました。目に見えない暴力が確実に存在しているのに気づき、そういうものに気づいていけるようになりたいと思った。